"全肯定"について
理不尽な出来事が起きたときにそれをすべてありのまま受け容れる"全肯定"とやらは何なのか…
何冊かの本を読んだ上で、誰しもが知っている"ポジティブ"と比較して考えてみた。
- 浅いポジティブ
- 深いポジティブ
- 全肯定
○1は、
「ポジティブ!ポジティブ!」とか「スーパーポジティブ!」みたいな感じで、
悪く言えば、人に迷惑をかけようが何をしようが「大丈夫!気にしない!お互い様!」と、
自分の言動は棚上げ&自己正当化しているだけの、
ただのハイテンション、もしくは歪んだ正義。
<あまり何も考えていない>状態。
『ネガティブよりはマシか?…いや、これならまだネガティブのほうがマシか?』という次元の話。
…ということで、これは違う。
○2は、
たとえば病気や事故に巻き込まれたとしても、そこから何かプラスになることを見つけ出す。
『病気になったから、病気のつらさがわかって、病人の気持ちや立場が理解できるようになった。』と考えられるようになること。
自分にとっても他人にとってもプラスになるポジティブ。
…ただし、これも"全肯定"とは違うらしい。
○3は、
目の前に起きる出来事は、
そもそも人間個々人の知識・常識・価値観・エゴなどの浅はかな考え・色眼鏡で見て"良い"とか"悪い"とか判断できる次元ではなく、
それらを超越した深い意味が隠されているが、人間の頭脳で解明できるようなものではないから、
人間の"良い"とか"悪い"とかいう判断を超越して捉える=すべてありのまま受容すること。
『人間万事塞翁が馬』で例えると、
実際の『塞翁が馬』を一般常識の良し悪しに当てはめて考えたとき、
自分の馬が逃げた = 不幸
→ その馬は別の馬を連れて戻ってきた = 幸福
→ 馬に乗ってたら落馬して骨を折ってしまった = 不幸
→ 戦争が始まったが怪我をしていたため兵役を免れて戦死しなくて済んだ = 幸福
…となって、
不幸があってもそれで落ち込まずにやり過ごしたら幸福がくる…という解釈だけど
それをさらにパワーアップさせて考えてみて、
もしそのケースで仮に、
馬が逃げて結局そのまま戻ってこなかった場合や、
落馬して怪我をしたのに徴兵された場合など、
明らかに理不尽なことが起きたとしても、
それら(目の前に起きた現象)を、不平不満を言わずにそのまままるごと受容するというのが、究極の受容!
不幸な出来事から無理矢理何かを見出さずに、ただただ受け容れる。
この捉え方↑は、
表面上だけ見れば、起きた出来事から何か意味(プラスの面)を見出そうとしていないから「浅いポジティブ」と同じく<あまり何も考えていない>状態に見えるけれど、
一般的に"不幸"と呼ばれるようなことから無理に"幸福"や"プラス"を見出さずに(ジタバタせずに)、
"すべてが神の承諾の下に起きた完璧な出来事"として、起きた出来事をそのまま受け容れる=素直さ=感謝することができているという点で、
「浅いポジティブ」とはまったく違う意味の『考えない』=『良い悪いの判断をしない』=『"問うなかれ"の実践』ができている。
これが"全肯定"・・・ってことでどうかな。
ちなみに、
究極の理不尽といえば「戦争」だと思う。
あとは、
自分に全く非がないケースの「犯罪被害」もそうだと思う。
現在、全世界にいる人たちの中でそれらを経験していてなおかつ"受容"を実践できている人は何パーセントくらいいるだろう?
そういう人たちの話を直接聞いてみたい気がする。
学べる点がかなり多そう。
ただ、この記事の"受容"に関しては適当に読み流してしまうと、
「じゃあ悪いことをしている奴らがいてもそいつらを裁かずに許して野放しすることになってしまう」という方向に話が行ってしまいがち。
その場合、今度は「自分の投げかけたものは自分に返る=最終的に各々の言動に見合った結果が返る」という『因果(カルマ)の法則』の話になってしまって長くなるから今回はここで止めておく。
こういう話をし出したら本を1冊でも2冊でも書けてしまうくらい長くなりそう。
※2020年8月下旬時点での私の解釈
このブログ記事は、
私が普段から好んでよく読んでいる著者数名の本から影響を受け、それらの内容を思い出して頭の中でまとめて書いてみた。
あえて引用はしなかった。
なぜしなかったか。
結局それをやってしまうと「あれも書きたいこれも書きたい」となってキリがないから。
それと、自分の中で咀嚼してアウトプットしたかったから。
ところで、上記の著者が誰だか分かるかな…。
全部当たったらすごい。
そんな人はいないとは思うが、
もしいたら最高のシンパシーを感じるか、逆に自分と似すぎていて気持ち悪さを感じるかもしれない。