沈黙と受容と感謝

好きな作品と人物について書く

バランスするとは限らない

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為末大「負けを生かす技術」

(この記事の最終更新日 2021年11月2日)

 いくら一生懸命努力をして自分では結構がんばったと思っていても、
 人生では必ずしもそれに見合った結果が出るとは限らない。

 エゴや押し売りのケースは別としても、
 誰かに何か親切をした場合や、
 人に喜んでもらうために何かをしたときにも、
 お礼一つ言ってもらえないときだってある。

 努力や親切に関して、
 実際の結果が、自分の想像(期待)していたものと大きく違っていた場合、
 落ち込んだり、気持ちがふさぎこんだり、理不尽な思いを抱いてしまうことがある。

幸せに生きるひとりの法則』(幻冬舎) [著]江原啓之

P.114
『思わぬ人から思わぬときにパーティーに誘われたり、思ってもいなかった人からプレゼントが届いたりすることもあれば、
逆に、あの人にはこれだけのことをしてあげたのだから御礼があってもよさそうなものだなどと考えていたら期待を裏切られたりする。
依存心や欲は、物事の流れの妨げとなってしまうので、他者に期待せず、淡々と生きることが大切。』

これはよくある。
 「こんなにしてもらっていいのかな? 私はこの人に対してきちんとお返しできているだろうか?」と考えてしまうくらい良くしてくださる方もいれば、
 一方で「こちらがこれだけしているのにお礼一つないな。この人は何も返そうとしないな。」と思えてしまう人もいる。
 まさしくこの本に書かれてあるとおり。

人への期待や自分の欲望に関して…
プライベートでのことよりSNSでのことのほうがわかりやすいから例を挙げてみよう。

まず一つ目の例として、このブログ。
 時間と労力をかけて一生懸命文章を考えて人が喜びそうな会心の記事を書いてもアクセス数が全く伸びなかったりする。
 それ以前に、googleの検索に全然引っかかってこないことも多々ある。
 これなんかは努力が必ずしもすぐ数値がするとは限らないということ。
 ちなみに、
 大した記事じゃなくてもお金のチカラを借りたらアクセス数を増やすことができるのはわかっている。
 (その行為が良いか悪いかの話をしているわけではない)
 お金を出して…
  まずはブログをProにして、
  次に専門業者に依頼して検索サイトの上位に表示されるようにして、
  最後に有名ユーチューバーに宣伝してもらう。
 これくらいのことをしたら適当な記事でもある程度は人が来てお金も儲けられるはずだ。
 そしてそれも努力のうちに入ると思う。
 ただ、現時点の私はそれらの手段をとってまでアクセス数を増やす目的と気持ちがなく、
 お金を使わない範囲でどれだけできるか楽しめるかやってみてその結果、現時点でこれが限界であり、
 自分の中では自分の努力に見合った結果が出ていない(それほど楽しめていない)と感じているから、
 「努力が即結果に結びつくとは限らない」という結論に至っている。

次の例として、私がYouTubeをよく利用していたときのこと。 
 私は、それぞれの人のチャンネルの概要欄やヘッダーに貼り付けてあるブログやツイッターのリンクには積極的にアクセスしていた。
 その人にとってアクセス数が増えれば嬉しいだろう喜ぶだろうと考えていたから目に入るたびクリックしていたし、
 余裕があるときは「いいね」や「拍手」のボタンを押したりもしていた。
 (相手から頼まれてやったわけではなくこちらが良かれと思って勝手にやったこと)
 しかし、
 逆にこちらが自分のチャンネルにブログのリンクを貼って以降、
 果たしてそれらの中のどれくらいの人たちがどれだけここを訪れてくれているかというと、
 おそらく大多数が全く来ていないor数回しか来てくれていないと思う。
 (自分から積極的に来てくれとお願いしたわけではない)

 自分のやったことが結果的に相手に喜ばれていなかったとか、
 その相手が何も気付いていないorあまり何も感じない人だったかとか、
 その相手が気を配れない人だったとか、
 それらの、相手が考えていること、相手にとっての理由・事情・原因はわからないし、
 何が正しいのか等は私にはわからないから横に置いておくとして、
 自分自身の中の結果として(現実問題として)、見返りが来ていない=自分の思い描いていたとおりの結果が出ていないと感じた。

 これも(後述するように)広い視野で深く考えた場合「目の前ですぐバランスするとは限らない」ということ。

ただ、ブッダが、
「自分がもてなしてもらって色々とやってもらっておきながら、
今度は逆に自分が何か頼まれたときに『忙しい』とか『無理』とか言って何もお返ししようとしない人は真の友ではない。」
 …みたいなことを言っていた。
 ということは、それに当てはまる人とは自然と離れて行くと思うし、それで良いと考えている。

P.93~
『よかれと思ってしたことなのに、感謝されないどころか迷惑だのお節介だの反発を買う結果になってしまうことがあります。
親切心が受け入れられないのには理由があります。
過去の相談者の中にも「自分は理解してもらえない」と悩む方がたくさんいました。
そうした人の多くが相手のためを思って親切にしたという一見すると大我100パーセントのような心の底に、
自分をアピールしたいとか、自分をよく見せたいとか、恩を売って相手を思い通りにしたいという欲が渦巻いていたのです。
「恩を仇で返された」という場合などはまさにその典型です。』

 私の場合も、その時々は決して見返りを期待してやっていたわけではなくとも、
 (見返りといっても実際は見返り以前の人として当然の行為だと思うが)
 冷静にそして厳しく振り返ってみると、
 自分の中のどこかで「これだけしてあげたのに」という意識や感覚(傲慢さ)があったのかなぁ、と。
 もしそうだとしたら、
 その程度の私に見合ったその程度の現象が目の前に現れたということ。
 (「何も返ってこない」という現象が返ってきた
   or
   私自身がもう既に自分に返ってきている事柄・事実に気付いていない=感謝が足りていない)
 そう考えたら、ある意味で「バランスしている」とも言えるかもしれない。

 さらに、世の中ってこんなもんなんかもなぁ…という学びも得ることができた。

神さまに好かれる話』(三笠書房) [著]小林正観

P.107~108
私たちは、一人ひとりを本当に大切にしているか、ということを常に考える必要があります。
例えば、手紙をくれた人に返事を書こうと思いながら、つい書きそびれて月日が経ってしまい、
いつの間にか忘れてしまうことは少なくありません。
同じように宅配便で何か送ってもらったとき、すぐ礼状を出せばいいものを「そのうちに」と思っていると、先方から電話があり「着きましたか」と聞かれることになります。
贈ってくれた人は何も礼状が欲しいわけではなく、届いたかどうかを確認したいだけです。
ですから「届きました、ありがとう。」と礼状を出す(連絡する)ことが、その人を大切にすることになるのですが、私たちはついついなおざりにしているような気がします。

 ↑ 
 これ、これです!
 私が言いたかったのはこれなんです!
 うまく表現されている文章を見つけられたので追記しておきます。


スピリチュアル リナーシェ 祈るように生きる』(三笠書房) [著]江原啓之

P.54
『他人に「いいね」と言ってもらって嬉しい気持ちになるのはわかりますが、
他人からの褒め言葉というのは際限なく欲しくなり、それがないと気分が落ち込むという、
麻薬のような側面があります。』

 いい勉強になった。

 江原さん曰く「気の利く人ほど日頃イラつくことが多い」
 それは、
 「自分ならここできちんと挨拶するけどなぁ。この人はなぜしないんだろう?」とか、
 「自分ならここでこういう声かけするんだけどなぁ。この人はそれに気がつかないのかな?」とか、
 「ここでそういうことしちゃうと気を悪くする人いるのに、なぜこの人はそんなことするんだろう?」とか、
 そういうことを日常生活上しょっちゅう考えてしまうからとのこと。
 
 確かに「なんで?」と言いたくなるような言動をする人や、自分と価値観の違う人は、現実世界にもネットの世界にもたくさんいる。
 人それぞれのやり方があるからその都度イライラしていたら永久にイライラしなければならない。
 これは見方を変えていくしかない。
 
 上記のSNSの例なんかでも、必ずしも相手が「非常識」というわけではない。
 人それぞれの考え方や性格の問題。
 ただ単純に気が付いていないor気が利かないだけのパターンのほうが多かったりする。
  (この言い方はトゲがあるか?とまたしても気になってしまうが…)

 一連のことから考えた結果…
 本に書いてある通りで、やはり「人に期待しないこと」が大切だと身をもって知った。

結論としては、
 何かをするときは見返りなどの期待は一切しない。
 もし何かを期待してしまう自分がそのとき少しでもいたとしたら、いっそのこと自分から何もしないという選択肢もあり。

P.69
『加算法で生きるという人生哲学。
たとえば、人に親切にしてあげたいと思った。
その時点での心の状態がゼロ地点であるとして、
「ありがとう」と言ってもらえるものと思い込んでいるのに言ってもらえなかったとしたらマイナスになってしまいます。
かたや「ありがとう」という言葉を端から期待していなければ、「ありがとう」と言われた途端にプラスに感じられる。
同じ事象であっても心の立ち位置によって、見える景色はまったく違うのです。
加算法で生きることは幸せに生きることと直結しています。』

 最初から相手に対して「この人は良い人だから100点!」としてしまうと、何をされてもそれ以上は点数が上がらない。
 それどころか、何かあるたびにどんどん点数が下がっていってしまう。
 これが減点法。

 逆に、最初から相手を「0点」として見ていれば、何をされてもそれ以上は点数が下がらない。
 それどころか、何かあるごとにどんどん点数が上がっていく。
 これが加算法。

 この考え方・見方をいつまでも忘れずに持っていたい。

負けを生かす技術』(朝日新聞出版) [著] 為末大

 この本には、
 上記で触れたようなネガティブな思考や感情が出てくるのはなにも自分だけではなく誰にでもあり、
 それ相応のものどころか何も返ってこない場合などしょっちゅうあるということが書かれてあった。

P.91~
『人に親切にしたら、大抵の場合、何かしら貸しが返ってくることを期待している。
 感謝されたい、お礼の一言を待っている。
 何か現実のリターンが欲しいということ。
 しかし、貸しが返ってくることは少ないから、不公平感を抱いてしまう。
 必ず人が感謝するとか、それがいつかどこかで返ってくるということを信じすぎてはいけない。
 なぜ返ってこないんだ!と怒りを爆発させないように、
 所詮はそんなものだ!と理解しないといけない。
 その範囲内で自分ができるやさしさを人に与えていくことが大切。』

P.94~
『間違っても、努力したことが必ず最後に報われたり、
 自分の人生がバランスするという考えは信用してはいけない。
 深いところではバランスするかもしれないが、
 我々が通常理解できるような損得や取引の感覚からしたら、
 バランスしないということを受け容れておかないといけない。』

 この文章を読んでいたら、
 「他人を変えることはできない」
 「成果主義に陥ると苦しくなる」
 「近視眼的に物事を見たら不公平なことは山ほどある」ということがよくわかる。

最高の自分をつくる「心眼力」』(サンマーク文庫) [著]野口嘉則

P.250~
『人は、物だけでなく他人の人生まで所有したくなることがあります。
 これだけしてやったなどという恩着せがましい気持ちを持ち、
 当然恩返しをするべきだという期待をしてしまいます。
 しかし、他人の人生を所有するなんてできるはずがありません。
 相手は一人の独立した人格です。
 相手なりの感じ方・考え方があるのは当然のこと。
 それをこちらがコントロールすることはできません。』

自分のこれまでの経験と本を読んで得た知識などから導き出された回答としていくつかパターンあって、

 A,その時々の結果が自分の期待や予想と違っても、
   これまでどおりとにかく努力をしたり、色々なものごとを投げかけ続ける。

 B,努力や気配りも大切だけど、
   時間や気力を必要以上に無理して使ってまで積極的に何かをしたり投げかけたりせず、自分のペースで生きる。

 現時点では(数年前から)とりあえずAはもういらないかなと思っている。
 時間だって有限だから。
 思ったような結果が出ない場合、いったん立ち止まってこれまでの努力や優しさを考え直し、
 それに使っていた時間を別のことや、自分が有効だと感じることに使っていきたい。
 そして数ヶ月前からそれを実践している。

 基本的にベースはBで、たまにAとBを使い分けて…といった感じ。

 自分からガツガツ前面にバンバン行くのではなく、
 どちらかというと前々からこのブログで述べているように、
 受け容れて感謝して対応していく受動タイプに少しずつ切り替えている。

ただ、とある人曰く、
 「スピリチュアルを勉強している人によくありがちな傾向で、
  『悪い種を蒔きたくないから極力何もしないようにしている』という人がいるが、
  せっかくこの世に生まれいでて来たのにそれはあまりにももったいない。」とのこと。

 う~ん、それも確かにそうなんだよなぁ。
 そう言われるとまた自分の中で葛藤してしまう…。
 なかなか最良の答えが出ない。

 あと「受容」に関しても、
 実際そう簡単にできるものではないし、
 実践していてもつらい現実が待っている。

イーグルに訊け』(飛鳥新社) [著]天外伺朗&衛藤信之 

P.28~
『「受容」とは、
 自分の身の回りにあるもの・身に起きること、
 それらすべてを創造主からのプレゼントと見なして全部受け容れていくということ。
 現状の問題点を鋭く追求→分析→改善してより良い社会を構築していくために常に外側に積極的に働きかける近代文明的な発想とは正反対のもの。
 前者は、どんな状況も受け容れてしまう=受動的で、自分自身の内面を深く追求するという姿勢で、不平不満を抱きにくく、心は常に平安に満たされる。。
 後者は、外部を変えようとする姿勢で、自己中心的になりやすかったり、思ったようにならないと不平不満を言ってしまうという問題点があり、結果的に暴走したエゴが激しくぶつかりあう極端な競争社会が出来上がってしまう。
 「受容」を実践できる人が増えてくると、争いがヘリ、おだやかな社会になる代わりに、経済の成長や産業の発展などはあまり望めなくなってしまう。
 それに、「受容」を中心とする受動的な社会は、積極的な社会から攻撃を受けると極めてもろい。』

 この最後の一行↑が「受容」を実践維持する難しさをものがたっている。

 現実では受動タイプは表面上だけ見られて「努力していない」とか「怠惰」と判断されてしまいがちだし、実際何かパフォーマンスしてアピールしているわけでもないから、実践している本人も「やっぱりこれじゃダメなのかな…」と弱気になってしまうことがたびたびある。
 かなり忍耐強くないとやっていけない。
 新型コロナウイルス大流行のときに、上から言われたことを黙って素直に聞いて自粛し続けていた人ならばこの気持ちが分かるのではないかと思う。
 表面上だけ見れば何もしていないように見えるんだけど、
 実際は何もしていないわけではない。
 その、何もしていないわけではないけれど何もしていないように見られてしまうことや、
 事実なにも見返りがないのに実践し続けて目の前に来たものを文句を言わず受け容れ続けるという、ある意味ものすごい努力。
 はっきり言って、そんじょそこらの「普通の努力」よりムズかしい努力ではないかと感じる。
 数値化されない、ゴールが見えない、それらもすべて含めて受け容れられるかどうか。
 「何もしてない」(ように見える)点を攻められると説明するのが大変だったりする。
 「こうこうこういうことをしています。こういう事情があるんです。」と説明したところで、
 理解しようとしない人からすると「努力しろ」とか「○○するべき」の一点張りで終わり。
 話が通じない人には何を言っても無理。
 相手にとってもこちらは「話の通じないヤツ」と見えているだろうから、あえて話し合わず、自然な流れ(お天道様の計らい=判断)に委ねるのが最良かも。
 
 この次元の話ってのは、私からすると「わかる人がわかってくれたらいい」という感覚がいるのがベストシンキングではないかと思う。
 要するに、わかってもらおうとしないこと=お天道様にさえ見てもらえているのならそれでいいや~的な考えでいることが、実践を長続きさせる秘訣ではないだろうか。

すべてを味方 すべてが味方』(三笠書房) [著]小林正観

P.108
『「これだけしているのに見返りがないとは何事だ」みたいに言うのは簡単ですし、それが一般的な反応かもしれませんが、それで喧嘩をしたり気分が悪くなっては意味がない。
自分の勝手で、自分がしたくてする、それに徹する。
相手がどのような反応であろうと関係なくそのように生きる。』

 他人がどういう言動を取ろうがそれはもう他人の勝手であってこちらがコントロールできるものではない。

 現時点で一番分かりやすいのが、
 煽り運転、高齢者ドライバーの交通事故、歩きスマホ ...etc
 あれほど、な~~~んかいも、な~~~んども、「危ないよ!」って言われてて、
 しかも前例として色々な事故や事件も起きててニュースで報道されているのにもかかわらず、
 いまだ懲りずにず~~~っと同じようなことをやっている人が一定数いたりする。
 やっぱり他人を変えることは無理なんだなぁ。
 自分で自分を変えようとしない限り、人は永久に変わらない。
 しかし、見方を変えると、自分で自分を変えようと思えば自分を変えることはできる。
 大切なのは、自分がどう生きるかだけ。

 - - - 

※1,この記事に出てくる本の文章はできるだけ原文をとどめつつ自分なりにまとめた。

※2,「ブッダの言葉」のくだりのところ、文章を引用したかったのにどうしても該当する本が見つからなかった。探したけれど結局最後まで見つからず、自分で思い出して書いた。どっかで読んだんだけどなぁ。

※3,この記事、かなり前(2021年5月頃かな?)から書き始めて書きためていた記事。
 不定期に中身を読み返して編集しているうちにあれも追加したいこれも追加したいとなって、
 (※2)のブッダの件もあって、
 結果的になかなか公開できないでいた。
 (為末さんの話題が出てきているから本当は東京五輪開催中あたりに投稿したかった)

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