沈黙と受容と感謝

好きな作品と人物について書く

人を裁くということ。

人を裁くと自分が裁かれる・・・というお話を今回はしてみたい。

とある質問サイトの掲示板に、
A「このサイトって外国語ばかりですけど、どこの国のサイトですか? ウィルス? 外国語の羅列が気味悪い。」
といった感じの質問がURL付きで書き込まれていた。

そしてその書き込みに対して、
B「"外国語が気味悪い"みたいな書き込みは差別的です。日本は単一民族国家の島国だからどうしてもそういう観点になりがちだけど、今の時代にそういう発言は恥ずかしいですよ。」
みたいな返しの書き込みがあった。

この会話の流れを見ていて私は、心理学の「投影」と、四字熟語の「因果応報」を思い浮かべた。

Bは「日本は単一民族国家」と書き込みをしているが、日本にはアイヌ民族もいるし、単一民族国家ではない。
そもそも、単一民族国家は世界に存在しない。
(以前、とある政治家が上記のような差別的な発言をして間違いを指摘されたこともあった。)

結局、BはAに対して「差別はよくない」という道徳論を説いているつもりだろうけど、自分も同じようなことをやっている。

これって私が前からたびたび言ってるように、
 「中傷するな!」と言ってる本人が他者を攻撃的な態度で中傷していたり、
 「戦争反対!」と言ってる本人がデモ行進で大暴れして投石や略奪を繰り返していたり、
 「差別反対!」と言ってる本人が別のところであからさまな差別発言をしていたり、
自分が正義だと思い込んでいる当人こそまさしく自身の言ってること(正義)と逆のこと(悪行為)をやっていたりするパターン。
 =投影

えらそうに言ってる側が何もできていない。
私がたまたま掲示板に書き込みするタイプの人間でなかっただけで、
もし私が掲示板への書き込み大好き人間だったらどうなっていたか。
「おまえも差別してんだろがアホンダラ!それに気づかんかいこのボケカスが!」などと、
町田康っぽくキレてBに罵声を浴びせかけていたかもしれない。(町田康さんのキャラが好き)
そうなっていたらBに早々とブーメランが返っていたことになる。
 =因果応報

でも、私はそういうことをするのは好きではない。
それに、ケチをつけたり文句を言うだけなら誰でもできる。
そんなことをしたら、相手と同レベルかそれ以下になる。

ではどうすればいいか。
その一連の書き込みを見ていて、じっくり考えた。

もし、私自身も別の場面でBのような言動を取っていることがあるとすれば・・・

ここで「俺は他者を裁いてなんていない!」「自分は違う!」「私は大丈夫!」などという無自覚な正当化や開き直りという落とし穴に落ちそうになるのをなんとか踏みとどまり、

一つ目の大切なポイントとして…
謙虚な気持ちになって「これは目の前の現象を見て学び、実生活に活かせ!」というメッセージだな、と捉えた。

Bのことを非難して悦に浸っていても意味がない。
 (言っておくけど私は質問をしたAではないぞ。全くの部外者だ。)

二つ目の大切なポイントとして…
ここで大抵の人は「あぁそうだな。Bみたいなクズと同じ土俵に立っても仕方ないしな。」みたいに、
最後に余計な捨て台詞を吐いて気分を紛らわそうとする。
何様なんだ?
これは避けたい。
私はそういうことはしたくない。
私はBに感謝している。
なぜなら今回のことで大切なことに気づかせてもらえたから。
これは決して嫌味で言っているわけではない。
いや、もし嫌味だと捉えられてしまったならば、そう思う人は自由にそう思ってもらってかまわない。
でも私は嫌味な意味でなく、人は他者がいないと学べないから貴重な経験をさせてもらったと本気で思っている。
ありがとう。

目の前に起きる現象はすべて自分に必要なこと。
無駄なことは何ひとつない。
その時々の出来事に必ず含まれている神様からのメッセージに気づけるか気づけないか。
それを活かせるか活かせないか。
大切なターニングポイントはあちこちにいくつもある。

人を裁くと自分が裁かれることになる・・・
自分が投げかけたものは早かれ遅かれ自分に返ってくることになる・・・
 という先人たちの教えを、今回また改めて気づかされた出来事だった。

もちろん、言うのは簡単だけど実践は難しい。
癖というモノはなかなか直らなく、かなりしぶとい。
同じ過ちは何度も繰り返してしまったりする。

私は「謝罪会見」とか「謝罪ツイート」はほとんど意味がないと思っている。

人間、そんなにすぐ変われない。
謝ったとしてもすぐ変われるはずない。
これは、
 「もっと謝れ!誠意を見せろ!」と言ってるわけではなく、
 「謝らずにやりたい放題やれ!」と言ってるわけでもない。
そういう次元の話をしているのではない。
そうじゃなくて、
謝るか謝らないかより、
その後その人が、どれだけ変わっているか変わっていないかのほうが重要だと思う。

だって、謝罪会見なんかしても、
ひどい場合だと、表面上だけ謝っているふりをすることだってできる。そんな謝罪会見に何の意味があるんだろう。

もっとひどい場合だと、YouTubeなんかだと謝罪動画を出してそれで視聴回数を稼いで収益を得る商法もあるらしい。
わざと悪いことをして、謝罪動画を出して、また悪いことをして、謝罪動画を出して・・・
それを延々と懲りずに繰り返している人も実際に大勢いるらしい。
私はその系統の動画は一切見ていないから(yahooなどのニュースでまれに情報が入ってくる程度だから)内容は詳しく分からないけれど、
もし上記の話がすべて本当だとしたら…
そういう動画を公開している人も、そういう動画をいつまでも観ている人も、どちらも同じ穴の狢だと思うし、
そういう配信者を"才能"と思い込んで媚びたり褒めたりする視聴者、
そういうコメントで勘違いして「私は偉いんだ」という態度を前面に出して失言を繰り返す配信者、
…もう訳が分からない。
私の中の常識・価値観とは大きくズレている。

上っ面の謝罪会見や謝罪ツイートをするくらいだったらもう何もしないほうがマシじゃないかな。
謝らなくてもいいから、実際に自分が変わろうと決意して、少しずつ実践していけばいい。
といっても、そういう商法で食べている人は最初からその気はないんだろうな。だってそういう商法だもんね。

私は謝罪会見や謝罪ツイートなんかよりも、その人のその後の言動のほうが気になる。

で。
後々、結果的に変われたのならば「罪を憎んで人を憎まず」で許してあげたらいい。
 (「許してあげる」という言い方は"上から目線"で好きじゃないけど、ここではわかりやすいようにそういう表現をした。)

自分の話に戻すと、
私は変わりたい。
だから私はチャレンジしている。
事実、私は変われている。

私も、自分の発言(自分の意見)が必ずしも絶対に正しいとは思っていないから、
自身の過ちに気づけば、その都度その時々、訂正して改善していっている(つもり)。

過去の発言を振り返ると…
どや顔で完璧に論評したと思い込んでいても、他人から見たらツッコミどころ満載=穴だらけなんだろうな、と。
もしかしたら上記のBみたいに見えているかもしれない。
そんなことを考えているうちに「あんなこと言わなきゃよかった・・・」「あの一言はいらなかったな」などと、本気で恥ずかしくなってきたりして、情けない気持ちにもなる。
当てはまりそうな自身の言動がいくつも思い浮かんでくる。
消したほうがいいか?
消さなくてもいいか?
消したら消し逃げみたいになるか?
…などなど、いろいろと考えてしまうこともある。

だけど裏を返せば、そうやって自身の至らない点に気づけるということは、
今の自分は過去の自分と比べて日々確実に成長しているということでもある。
そんな自分を誇りに思っている。