沈黙と受容と感謝

好きな作品と人物について書く

インターネット、ルール、エチケット、感謝、言葉狩り ...etc

[注意]
 この記事は愚痴っぽい戯れ言のような内容ですし、下書きもほとんどせず自分の思いを言葉にしたので読みにくいかもしれません。
 なんでしたらこの時点で閉じてもらってもかまいません
 この記事は後で消すかもしれませんし、消さないかもしれません。
 この記事の内容と同じような思いをされた方、同じような経験をされた方はどれくらいいるでしょうか。

[本題]
 2月20日(日曜日)に、YouTubeへ投稿した動画に対してAIの誤判断っぽい判定だけど警告みたいなメッセージが届いたことはそのブログ記事内に書いておいた。 

 私はブログではたまにギリギリの表現をして(下ネタ等)、それが倫理に引っかかるかどうかとか、誰からどういう反応がくるかとかの様子を見て、今後の判断の基準にしようとわざと試すことはある。

 けれど基本的に普段から、
 権利(著作権・肖像権など)/差別用語/過激なアダルト・グロテスクな表現に関しては、その都度できる範囲で気を配っているつもり。
 
 今の時代、特に動画はブログよりもたくさんの人が視聴するからなおさら、
 今回もかなり慎重にチェックしたのにもかかわらず、
 そして録画と編集以外にアップデートの時間も含めたら相当な時間費やしたのに、
 誤判断だとしてもそれで警告がくるのはショックだし、
 これまで以上にこれから何かを発信することをものすごくためらってしまう。
 何かを発信することを頭で考えただけで煩わしく難しく感じてしまう。
 
 それと、
 ちょうどその流れで何かを発信するときにどんなところに注意すればいかを学ぶため、言葉などの表現に関して調べていた。
 
 そしたら私が普段から好きで使っている「ご縁に感謝」という言葉に関して、
 「うざい」
 「偽善」
 「大嫌い」
 「そういう奴は本当に感謝していない」
 「ろくでもない奴が使う言葉」

 …などなど、批判的な書きこみのされてるサイトが結構な数ヒットした。

 感謝の気持ちを表現してもバッシングされる時代になったのか?

 私は「縁」というものは人間の努力だとか目に見えるチカラだけでつかみ取ることはできないありがたいものだと本気で思っているし、
  (出会いたくて出会えるものじゃないから)
 読んでいる本にも「縁は大切」とか「感謝すること」は良いことでしかないとあちこちに書かれてある。
 私もそう思っている。そう信じている。
 それのどこがダメなんだ?

 今までいろんな人と巡り合って、悪い人だとかイヤな人だとかいわれるタイプの人もたくさん見てきたけれど、
 まさか「感謝をする」ことを否定してきたり悪く言ったりしてくる人がこの世にいるとは思わなかった。 
 今の今まで気づかなかった、そういうタイプの人間もいるというその受け入れがたい現実を目の当たりにして強い脱力感に襲われている。

 本当に心の底から感謝していて、なぜ偽善者扱いされなきゃならないのか。

 「感謝しましょう」「感謝してください」「感謝しなさい」と言われているのなら、
 押しつけられているような気がするから嫌悪感を持つのは分かるとしても、
 一個人が自発的にしていることにまで文句を言ってくる人がいるとは・・・驚きでしかない。

 私はYouTubeでもブログでもツイッターでも、関わってくれた人に感謝しているのに…それのどこがダメなんだ?
 
 私が直接言われたわけじゃないけど、なぜそんな言い方されなければいけないのかすごく引っかかっている。

 差別発言や誹謗中傷などは人を不快にしたり傷つけたりするからよくないのは当然理解できるし、
 自分だっていつも気をつけていこうと思っている。

 しかしその一方で揚げ足取りみたいに…
 上記のような肯定的な言葉でも悪く言ってくる人がそんなにいるとしたら、
 もう何もしゃべることができないし、何も表現できないかもしれない。
 何を言っても突っ込まれそうな気がする。
 YouTubeツイッターのプロフィール欄や概要欄も変えたほうがいいのか?
 「『ご縁に感謝』などという偽善っぽい言葉を使ってしまい申し訳ありませんでした」って書いたほうがいいか?
 それとも、こういう言い方をすると今度は「嫌味な奴だ」とバッシングされるのか?

 話を戻すと、
 まず、YouTubeでは昨日のようなことがあった。
 次に、ブログなどで文章を書いたら(たとえ肯定的なことを書いていても)上記のような悪口を言ってくる人がいるかもしれない。
 あと、現在ツイッターなどでブログのURLを載せているのも、もしかしたらそのうち今回のYouTubeの件のように「悪質なサイトへの誘導」と捉えられてペナルティを食らうかもしれない。

 ではどうすればいいんだ。何を発信すればいいんだ。わからなくなってきた。

 「適当に『今日これ食べました』とか『今日はいい天気でした』と書いておけばいい」
 …と言う人もいるかもしれないけれど、
 有名人でもなんでもない一個人がそんなことを書いて誰が喜ぶ?
 喜んでくれる人がいる場合は別としても、
 誰も喜んでいないなら私だってそんなことを発信していても楽しくないし、
 自分も他人も誰も喜ばないならそんな発信をしても時間の無駄だと感じてしまう。

 一連のことに関して、
 「つまらなく感じてしまうほど考え込むことはない。神経質になりすぎ。」
 …と、思われるかもしれないけれど、
 言葉にしろ何にしろ発信するものに責任を持って色々考えなきゃいけない時代だよな。
 だったらやっぱり考えてしまうよな。
 しかも、肯定的な言葉を悪く言うサイトもこの目ではっきり見てしまったし、
 だからといって、悪口や批判は当然よくないし、
 当たり障りのないことを書き込んでも仕方ないし、
 真剣に考えれば考えるほど、表現できるモノゴトがなくなってくるような気がする。
 何をやっても悪く言ってくる人は確実にいる。
 このようなことを考えながら何かを発信していても全然楽しくない。本当にどうすればいいんだ?

 私には性格上やっぱりネット(SNSやブログなど)が向いていないということか?
 ここ数日の間で、何を発信しようかワクワクしていた私のモチベーションの下がり方が半端ない!
 これって「あなたには向いていないからもうやめておきなさい」という神様からのメッセージか?
 「神様からのメッセージ」なんて書いたらそれこそ「イチイチ神様とか非科学的な発言をする奴はバカ」などと言われるのだろうか?
 そう言うと次は「自意識過剰だ」「被害妄想だ」と言われるのだろうか?

 さっきからふざけているようにも見えるけれど、そう突っ込んでくる人は実際にいるだろう。
 そこまでいくと、そういう人はもはや「そういう趣味の人」なのかもしれない。

 今までブログや動画をやっていて、アクセス数や視聴回数が思ったほど伸びなかったり、期待していた反応がなかったりして、
 それらの理由で「バランスしないなぁ、やめようかなぁ。」と思ったことは何回もあるけれど、
 今回それとはまた違う次元の話でやめたほうがいいかを考えていたりする。
 仕事上どうしてもSNSで発信しなければならない有名人や、
 報酬をもらっている人は別として、
 誰が見ているかわからないこういうネットの世界で”趣味で”発信することの意味とか楽しさとかがよくわからなくなってきている。
 リスクがある、楽しくない、デメリットのほうが多い、
 そんな世界なら関わらないほうがいいか?
 誰が見ているかわからない大勢の前で何かを発信することが何かおそろしくなってきた。
 
 というか、そもそもそこまで考える人は趣味でネットなんてやってないのかな?
 私みたいに事あるごとにモノゴトを分析する癖のある人が少ない?

 今回は愚痴と疑問だらけの内容になってしまった。 
 わからないことだらけだ。 
 誰か教えてほしいな。

■□■□■□■□■(追記)■□■□■□■□■(2022年2月22日)■□■□■□■□■
 あれから自己分析していた。
 もし自分が日頃から、
  「感謝!」と言いながら感謝できていないと仮定すれば…
 私が普段から何度か言っている、
  掲示板などで「中傷するな!」と言ってる本人が誰よりも他者を攻撃的な態度で中傷していたり、
  デモ行進などで「戦争反対!」と言ってる本人がデモ行進で大暴れして投石や略奪を繰り返していたり、
  各メディアなどで「差別反対!」と言ってる本人が別のところであからさまな差別発言をしていたり、
 そういう言行不一致な人たちと自分も同類で、
 言行不一致な人を嫌っているそんな自分もまさしく言行不一致だったということになる。
 そうだとすれば、これは投影でもあり、ブーメランでもある・・・
 いや、しかし!
 これは本当に投影なのか?ブーメランなのか?
 どこに違和感を覚えるかと言うと、
 後者の3パターンは「他者を裁いている」状態。
 他者を裁いていながら自分も同じことをしている=実践できていない、そういう意味での言行不一致は悪質だし、それがいつか自分に返ってきてもおかしくない。
 だけど前者は、感謝していない人に対して「感謝をしろ!」などと、「他者を裁いている」わけでもなく、「他者に強要している」わけでもなく、自分自身が言いたいから自分で言っているだけ。
 前者と後者の大きな違いはその点。
 自分のプロフィール欄などに「感謝しています」とか「ご縁に感謝」と書くことは、
 あくまで自分事として自分が言いたいから言っている、自分がやりたいからやっているだけであり、
 誰かに押しつけているわけでもなく、
 もし「感謝している」と言いながら実践できていなかったとしても、
 それは自分の問題であり、別に誰かに迷惑をかけているわけではない。
 実践できていないなら、書いた本人があとで「あぁできてなかったなぁ」と、その都度自分でそれに気づいて反省し、自身を変えていけばいだけ。
 それに、できていないと自覚しているからこそ、自分を戒めるためにわざと自分の視界に入るところへ書いているときもある。
 だから、これのどこが悪いんだ?どこが問題なんだ?と私は考えてしまう。
 「感謝」とか「ご縁に感謝」という言葉を使うことに対してそれが気に食わない人は、どこが・何が、どうしてそんなに気になるのだろうか?と。
 もしここまで説明しても、「偽善」「嫌い」「宗教っぽい」「関わらないほうがいい」「頭がおかしい」と思う人は、自由にそう思えばいい。
 現時点での私の分析は以上。