慎重派がネットで積極的に発信しない11の理由
と
悪意攻略法
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・はじめに…
先日、YouTubeのライブ配信で軽い挨拶コメントをしたところ、見知らぬ人から攻撃されました。
皆さんも、知らない人からの心ないコメントに傷ついたり、発信するのが嫌になったりしたことはありませんか?
インターネットは自己表現の場として無限の可能性を秘めている自由な空間です。
それと同時に悪意や誤解の温床でもあります。
ネット上での悪意は、決して珍しいものではありません。
いろいろ検索していて、次のようなデータを見つけました。
総務省「インターネット上の違法・有害情報に関する流通実態アンケート調査」
2024年に実施されたアンケートのデータを一部抜粋
※2025年9月にアクセス&確認
↓ ↓ ↓
『ネット上でどのような書き込みを見たことがあるか』
・他人を傷つけるような投稿(誹謗中傷)
1位 X:66%
2位 YouTube:27.7%
3位 Yahooコメント:16.7%
4位 Instagram:14.6%
5位 Yahoo知恵袋:13.4%
・プライバシーや個人情報に関する投稿
1位 X:60.4%
2位 YouTube:16.7%
3位 Facebook:13.4%
4位 Instagram:13.1%
5位 5ちゃんねる:11.1%
・著作権侵害/無断で投稿
1位 X:59.7%
2位 YouTube:28.3%
3位 Instagram:14.6%
4位 Facebook:11.2%
これは一例で、
他にもネット上の誹謗中傷や権利・プライバシー侵害の実態や、それらに関するアンケート結果の詳細が掲載されてあるので興味ある人はぜひ閲覧してみてください。
このように、ネット上では誹謗中傷やプライバシー侵害が頻繁に発生しています。
私は普段ネットでの発信を控える慎重派です。
その理由と、
ネット上の悪意にどう向き合うかを、
自身の経験を交えて考えてみました。
慎重さは弱さではなく強さであることを伝えたいです。
まずは、なぜ私が発信をためらうのか、その理由を整理。
次に、最近の出来事を通じてネットの複雑さや課題とどう向き合うかを語ります。
この記事はネットでの発信や悪意について私の経験をもとに深く掘り下げていますので、
・ネットでの発信に興味はあるけど一歩踏み出すのが怖い人
・ネットで嫌な思いをして悩んでいる人
・私と同じような慎重派の人
それらの人に何か少しでもヒントや共感を提供できれば嬉しいです。
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●記事前半:私がネットで積極的に発信しない11の理由
●記事後半:悪意攻略法
※このブログ記事を読んでいただくにあたって、考慮・理解していただけたら嬉しいこと 3点。
A.
自分が腹立たしいと感じる出来事について、
・アホ
・バカ
・カス
・クズ
・クソ
・ボケ
・低脳
ネット上でよく見かけるそのような汚い言葉(他にも挙げていくとキリがない)をこの記事内で私も積極的に使っていったほうがこのブログの読者にとっても読みやすい(こちらの感情をストレートに伝えるのに分かりやすいから良い)かな、と最初は思っていました。
けれどやっぱり私自身のポリシーとして、
現実世界だろうとネットの世界だろうと、どれだけ相手が悪い人であっても、どれだけ自分が正当だった場合でも、
そのような言葉を使って暴言を吐いたり、罵ったりという、他者を人として扱わない行為はどうしても自分に合わないので、
このブログ記事内では理性を持って言葉を選びつつ文章を書いていくことにしました。
よって、「理解しがたい言動をする人」などというやんわりした遠回しな表現を多用しているため、ストレートな言い回しじゃないから感情が伝わりにくいと感じる点があるかもしれません。
B.
「理解しがたい言動をする人」といった表現(言葉)が頻繁に登場しますが、それはどういうタイプの人を指すのか、以下のように定義します。
・社会常識から逸脱し、他人を不当に攻撃したり、根拠なく批判を繰り返す人。
・事実を確認せずに他人を糾弾したり、匿名性を悪用して悪意をまき散らす行動を取る人。
単に私が「こいつのこと嫌いだからダメな奴と認定する」といった一方的な偏見で特定の個人を好き嫌いで決めつけるものではなく、"あきらかに非常識な人"を指すものとします。
ただ、中立と客観性を心がけているとは言え、私という一人の人間(凡人)が自分の考えを述べているので、間違いなく主観は入っていると思います。
C.
私は本来"理解しがたい言動をする人"を相手にするつもりは一切ありません。
ただ、今回のこのブログ記事だけは特別としてそんな自分をいったん横に置き、
私がその「理解しがたい言動をする人」がいるところまであえて目線を下げて同じ土俵に立ち、相手の言動を分析して矛盾を暴いていくとどうなるか…という仮定で話を進めています。
なので、普段は冷静な対応や丁寧な言葉の使用を心がけていますが、この記事では無意識or意図的に過剰反応して多少感情的な視点も交えて書き込みをしている箇所もあります。
…以上の3点を考慮・理解していただければありがたいです。
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◇私がネットで積極的に発信しない11の理由
私は元々インターネット上で何かを積極的に発信するタイプではない。
ある時期からYouTube、X(旧ツイッター)、ブログなどをやり出したが、
これまでに何度も、発信する頻度を減らしたり、不定期に全く発信しない時期を設けている。
それはなぜか。
私の中では色々と理由がある。
思い浮かんだものを挙げてみる。
いま思い浮かんだ11項目は以下の通り。
(時間をかけて考えたらもっと出てくるかもしれない)
<私がネットで積極的に発信しない理由11>
※下記の文章内容は該当している人を批判しているのではなく、自分にはどう見えているか、自分ならどう考えるか、自分がその立場だったらどうしたいかの話です。
1「誤解やトラブルのリスク」
表現に気をつけ、言葉をしっかり選び、人や時代背景にかなり気を配っているつもりでも、残念ながら誤解されることはあるし、間違った捉え方をされることはある。
もっとひどい場合だと、
・最初から故意に因縁をつけるのが趣味の人
・被害妄想の強い人
・自意識過剰な人
・歪んだ正義感の人
もいたりして、正直言ってそれらすべてには対応しきれないし、かなり疲れる。
「誰に対しても何も気を配っていないから叩かれた…」というのなら自業自得だしすんなり諦めて受け入れられるが、
これほどまで気を配っていても誤解されたり叩かれたら脱力感に襲われるし、悲しくもなるし、なかなか受け入れられなかったりする。
権利に関しても同じ。
ネット上に投稿されている動画や画像などを法律やルールと照らし合わせて厳しくジャッジすると、違法なものがかなり多かったりする。
"他人は他人"なので、他人が違反していても私はいちいち正義をふりかざして注意するつもりもないし、低評価ボタンを押すつもりもないし、通報する気もない。
ただ、他人事ではなく自分事と考えた場合、自分も知らない間に権利を侵害していたり、無意識のうちに誰かを傷つけていたらこわい。
そうなったら嫌だし、後でゴタゴタになったら双方とも不快になり、誰も得しない状況になってしまう。
極力悪い種は蒔きたくない。
以上のことから、「ならば最初から何も投稿しなければそんなリスクもないし、気苦労もせずに済むよなぁ…」と考えてしまう。
誤解やトラブルはなるべく避けたいから。
2「真似」「二番煎じ」
他の人と同じようなことはしたくないし、同じ内容のものは投稿したくない。
そんなことをしてもおもしろいと思えない性分。
しかももし、似たようなものが既にネット上にあるのに気づかず、悪意もなくたまたま公開した結果、もしパクったと勘違いでもされたら納得できないし嫌だ。
なので前もってある程度確認するようにしていて、もし似たようなものがもうすでに出回っていたら、たとえ作成が終わっていても公開しない。
実際に以前、時間をかけて記事を書いたあと検索してみたら、似たようなものが既に出ていると気づいて公開をやめた経験がある。
気持ちが冷めてしまって公開したいと思えなくなる。
自分が考えていることと同じようなことはもう既に誰かがやっていたりする。
何にせよ、以上の考えを持っているから結果的に何かを投稿する機会が減ることになる。
3「期待外れ」「労力に見合わないむなしさ」
自分では一生懸命作った会心の内容だと確信していても、結果的に全く評価もされず、喜んでももらえない場合が案外多い。
そもそもそれ以前に人の目に触れずに流れていってしまうことも多々ある。
そうなると後になってから、「時間と労力をかけて作成・公開する必要はあったのか? なかったのではないか? すべて無駄だったのではないか?」と感じてしまう。
最悪な場合、「この内容の良さが分からない人たちは間違っている」などと、他者に対する的外れな怒りや嫉妬心が出てきてしまったりしたら本末転倒。
そうなったときのことをあらかじめ想定してしまうと、無理に発信する必要はないしむしろやめておいたほうがいい…となる。
4「お金」「プロ」
私は報酬をもらっているわけではないし、プロとしてやっているわけでもない。
完全に趣味で&ルールの範囲内でやっているだけ。
それなのに、
・報酬をもらっている人
・プロとしてやっている人
・タイトル詐欺、過激な内容、ルール違反の投稿を繰り返している人
それらの人たちと同列として見られ、ルールを守ることを心がけつつ趣味でひっそり楽しみたいだけの自分まで厳しい目で良い悪いをジャッジされるのならば、それは不公平だし割に合わない気がする。
よほど自分がやりたくてやっていて、楽しさ自体が報酬のようになっている気分の場合は別として、乗り気でないなら気負ってまでやるほどのものではないし、そんな状況・状態で自分のモチベーションを保つのも難しい。
自分の時間と労力を、もっと他の生産性のあることに使った方がいいのではないかと考えてしまう。
5「満足」「納得」
過程(下書き作業など)の時点ですでに気分がスッキリして満足しちゃうことが多い。
たとえばブログの場合だと、下書きが終わった段階で自分の考えを整理できたならば、その時点で自分の中ではある程度満足or納得しているわけで、別に公開することにこだわらなくても良いと感じてしまう。
実際にこの記事も、下書きを繰り返すのに比例して自分の考えがどんどん整理できたから、「最終的になんとしても絶対に公開したい!」という強い気持ちは途中からなくなっていた。
そうなると、その言葉通り、公開する意義やモチベーションはもはやなくなっているわけである。
自分によほど多くのファンがいて「あなたの発信を楽しみに待っています!」などと言ってもらえているのではない限り、必ずしも誰かの目に触れさせたり、おおやけの場で発信しなくてもいいのではないか、と考えてしまう。
6「無意味」
あたりさわりのない内容(たとえばこれを食べたとかあれを買ったとか)なら無難だが、リスクがないのと同時に無意味さも感じてしまう。
自分は有名人ではないのだから、そんなものを発信しても影響力はないし、関連企業が喜ぶこともなく、その投稿が視界に入った人たちにとってもはっきり言って全く興味のない内容だろう。
誰の役にも立たない発信でしかない。
自己満足でもいいのならどんどん投稿すればいいが、私の性格としては自己満足のためにおおやけの場で自分の情報を発信する意味がよくわからないし、そこまでして自分のことを発信したいとも思えない。
社交辞令でわざわざ見に来てくれたり、律儀にコメントをしてくれる希有な人もまれにいたりするが、それはすごく嬉しくてありがたい反面、そんなことでその人の大切な時間を奪うことになっているなら申し訳ない気持ちになってしまう。
7「優先順位」「体調」「依存」
娯楽はインターネットの他にも世の中にたくさんある。
生きていたら、やらざるを得ないこと、やるべきこと、もっと大切なことがある。
自分の中で優先順位を付けてみたら、ネット上で趣味として何かを発信する行為は間違いなく上位ではないし、どちらかというと面倒な部類ですらある。
自分が発信する側の場合のみだけでなく、閲覧のみの場合においても、インターネットは気軽に楽しめる趣味である一方で、特に見る必要のないものまで長時間にわたって見せられる(依存してしまう)要素があちこちにちりばめてあって、知らず知らずの間に、無駄なことに多くの時間と労力を使って(奪われて)しまっていたりいる。
体調面でも、パソコンやスマホを長時間使用しているとカラダに負担がかかって調子が悪くなる。
あとから冷静にふりかえると、
・時間の無駄
・体調悪化
という、心身ともにダメージを受けてしまっていることに気づく。
しかも、次の日になったらまた同じことを繰り返してしまっているというおそろしい依存度!
こんなことの繰り返しならば、他の楽しみを優先したり、健康のために離れたほうがいいと考えてしまう。
8「AIの進歩」
現在はAIが進化していて何でもこなしてくれる。
たとえば、文章やイラストやらをAIにお願いしてレベルの高いものを作り出してもらい、それをアップしてあたかも自分(人間)が制作したかのように見せている人もいると思う。
まぁイラストのほうはAIと見抜くことは割と簡単だと思う。
だけど、文章のほうは判別つかないことも多いだろうし、AIに作成してもらった後に少しチェックして誤字脱字や違和感のある箇所を修正したらなおさら判別がつきにくいはず。
となると、私(生身の人間)が一生懸命考えて何かを発信しなくても、AIがいくらでも代わりとなれるし、それ相応のものを生み出せるから、自分がわざわざ何かを考えたり生み出したりする意味や必要性を感じない。むなしくなる。
ならばこれからの時代はAIに任せて、自分はその時間と労力を別の創造的なことに使ったほうがいいのではないかと考えてしまう。
9「自己責任」
一連のようなことを言うと「やめる理由を探すのではなく、チャレンジしよう!」と提案する人がいる。
その考えも大切なのは理解できるが、ではその人の言うとおり従ってその提案を信じてチャレンジして誰かから理不尽に叩かれたとき、その提案をした人は果たして助けに来てくれるだろうか?
いや、助けてはくれないだろう。
それどころか、「自己責任なんだから、自分で責任を取れ!」と反論されて終わるのがオチだ。
一見正しい反論のようにも見える。
だが私から言わせてもらえば、そうやって言いっぱなしで自身の発言に責任を取らない行為も十分、自己責任の放棄だと思う…。
何にしろ、自己責任が大切なのは確かに事実。
自己責任を重視するからこそ、チャレンジする場合に、リスクを慎重に考えてトラブルを避ける選択をすることは当然だし、その結果自身の発信や行動を控えようという結論に至ることは決して間違っているとは言えないはず。
誰かに促されて行動した結果、問題が起きたとしても、最終的には自分で責任を取る必要があるから。
(自己責任と関連がある因果応報については後半で深掘りする)
10「承認欲求」
結局のところ、一般人有名人問わず、そして自覚しているしていないは別として、誰かが何かを発信するのってそのほとんどが自身の承認欲望を満たすためと言って間違いない。
そして人の承認欲求は、どれだけ他者から認められてもどれだけ手に入れても100%満足することは絶対にありえない。
承認欲求は、心理学者マズローの欲求階層説でも『尊重の欲求』として説明されており、人間が社会で認められたいと思う自然な欲求で、ネット上では特にこの欲求が過剰に刺激されてコントロールするのが難しい印象。
事実、うまく欲求を満たせているように見えている人でも、よく観察していると、もう充分満たされているのに「まだ足りない もっと欲しい」という気持ちが前面に出ていて全然満たされておらず、むしろ欲求に追われ続けてもはや満足できるポイントが分からなくなっていて、欲望をコントロールできずにもがき苦しんでいるように見える。
YouTubeチャンネルの登録者数が既に何十万人もいる配信者がメディアに出て「チャンネル登録お願いします!」と叫んでいたシーンはとても印象的で今でもはっきり覚えている。
承認欲求(物欲や金銭欲も含めて)はキリがない。
私の場合は自分が苦しみたくないから"自分のために"過度に欲しがらない&持たないように気をつけている。が、もちろんそれは無理な話で、人間として生きている限り自分の中のどこかで無意識にそれらを欲しがったり他者から承認されることを望んでいる自分がいるのは確実。
となると、それらの欲求を満たすために何かを発信し続けていても、いつまでもゴールにたどり着けず、永久に苦しみ続けてしまうような気がするから、発信することはやめようという結論に至ってしまう。
11「人格」
私はこれまで約25年ほどインターネットを利用していて様々な人を見てきた。
ネット上には匿名性を悪用して他人を攻撃する言動を取る人が多く、取るに足らないようなことや小さなことに対して異様に噛みついていたりする。
いや…もしかしたら厳密に言うと、非常識な人や攻撃的な人の声が大きく見えるから目立っているだけで、実際は騒がしい声に埋もれて全然目立っていないおとなしくてマトモな人のほうが圧倒的大多数を占めている可能性もある。
しかしどちらにせよ、私には実際問題としてネット上には上記のようなすぐ感情的になって他者に汚い言葉を軽々しく発する人がたくさん生息しているように映っているのは確か。
そしてそのような言動をとる人の内訳は様々で、有名人、一般人、個人、団体、老若男女、国籍、人種など明確に線引きはできないように感じている。
私の考えとしては、本当に成熟している人はネット上で何も発信しなくても自分の価値を確立できているのではないかと信じている。
なので「私も、静かに自己を磨き、騒がしい声に流されないよう心がけたい。だから発信を控えよう。」となってしまう。
・
・
・
こんな感じで、発信しない(発信しなくて済む)理由を挙げてみた。
以上、私がネットで積極的に発信しない理由を挙げてきた。
だが、こうした慎重さにもかかわらず、ネット上では悪意に遭遇することがたびたびある。
では、実際に悪意に遭遇した場合はどうするか?
最近の経験を基に、悪意にどう向き合うか考えていきたい。
後半につづく・・・。
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◇悪意攻略法
実は先日、私自身も「やっぱりネット上には非常識な人が多いな」と改めて強く感じた出来事があったのだ。
世の中には数多くの"理解しがたい言動をする人"がいるが、ネット上ではそれがなおさらあぶり出しのようにわいて出てくる。
では何があったのか書いていきたい… (考察は後述)
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○起きたこと ケース1~5
●ケース1
私はYouTubeで、様々なLive配信に顔を出して、取るに足らない会話や、挨拶などを残すことがある。
当然のことながら、大多数の人が「良くない」と判断するであろう、誹謗中傷、プライバシーの侵害、権利の侵害、嘘の情報、過度な下ネタなどのコメントは残さないよう細心の注意をしている。
あと、それぞれの配信チャンネルには配信者さん自身が設けているルールがあるからそれをきちんと守るため、コメントする前に説明欄には必ず目を通すようにしている。
そして私が残すのは最終的に問題ないと自分が判断した内容のコメントばかり。
挨拶コメントというのは、一例を挙げると、「おはよう」「こんにちは」「Hello.」「良いBGMですね」「素敵な絵ですね」「これ好きです」といった肯定的な内容の一言メッセージが主だ。
先日、YouTube上にあるいくつかのLive配信でそのような挨拶コメントを残していたら、知らない人物から悪意のあるコメントを受けた。
私を名指しして、
『こいつはいつも同じコメントばかり あちこちにコメントしまくってる暇人 誰からも相手にされてない かまってちゃん 現実世界でも誰からも相手にされない奴 w w w』
といった内容の書き込みがされたのだ。
相手にするつもりはなかったし、「あぁ、またこのたぐいの輩がわいてきたか…」程度の冷めた目で見ていたのですぐに閉じたが、明らかに悪意のあるコメントだった。
これまで約25年間ネットを利用してきて、このようなケースは珍しくもなくむしろ何度もあったから驚きはしない。
しかし、当たり前だが私も人間。慣れたとはいえ、いい気はしない。
●ケース2
あるときXで、Yahooの記事が紹介された。
とある焼き鳥屋の店主が「焼き鳥は串から抜いて食うな」から始まり、「これもやめろ!あれもやめろ!こういう客は来るな!」等いろいろ主張しているという内容の記事。
これに関して私は当時、Xの文字数制限ギリギリでまとめて発信した。
『記事を読んで店主の気持ちも分かるが
個人的には基本的な食事のマナーさえ守ればあとは自由に食べさせてほしい派。
必要以上に色々指摘されてビクビクして気を遣って食べてもおいしくない。
私にはこの系統の店は無理。
ただ、店に入ってから言われるより 予め店の方針を伝えてくれるのはありがたい。』
すると私のこの投稿をわざわざ引用して「串から抜かないことも基本的なマナーだろ!このカスが!」といった書き込みをした人物がいた。
●ケース3
世の中には攻撃的な言動を取る人が他にもたくさんいて、ネット上ではその傾向が顕著でよく目立つ。
一番分かりやすいのがX。
まず、時事ニュースにしろ何にしろ安易に首を突っ込む人が多い。
たとえば、
「まだ真相が分かってない段階の事柄。
しかも片側の意見や断片的な情報しか入ってきていない状態。
誰が正しいのか何が正しいのか、誰が間違っているのか何が間違っているのか、それらの正確な情報がほとんどなく、真意が正しく伝わってきていない状態。」
そのような状態・状況の出来事に対して、確証がないのにもかかわらずこっちが悪いあっちが正しいなどと軽はずみな判断をして、特定の人物(無実の場合もあり)を汚い言葉で糾弾している人が本当に多い。
事実を確認せず他人を批判する行為は、誤解や不当な攻撃につながる可能性があり、最悪な場合"えん罪事件"に発展する危険性もある。
そのような愚行をしている人物は、有名人一般人問わずごろごろいる。
ひどいケースだと、Xのようなプラットフォームで常に攻撃的な発信しかしていない人もいる。
本人は自覚してないだろうが、他者を裁くのが快感=趣味なのだろう。
みなさんもある程度頭に思い浮かぶ有名人などがいるのではないだろうか。
●ケース4
ケース4はネット上での出来事ではないが、ケース3で書いた話が実際に起きたケースなので紹介。
私は過去に大きな施設でボランティア活動をしていた時期があった。
(後から振り返ってみて)当時の私は無意識のうちに「こんな施設でボランティア活動をしているような人たちはみんな心の綺麗な人たちばかりだろうな」と、活動を始める前にそう考えてワクワクしていたのを覚えている。
しかし、実際に活動をしているうちに、そこで活動をしている一部の人が、他者に嫌がらせをしたり、周りの人の悪口を言ったり、嘘の噂話を広めていたり、そのような愚かな行為をしている光景を直接目の当たりにするという、とんでもない現実を見せつけられる経験をした。
しかも、当人たちはそれを自覚している様子がなく、自覚しようともしていなかった。
それどころか、先に自分たちがミスや過ちをしていても(そのような自分たちにとって都合の悪いことだけは)棚上げし、他人に対しては異様に攻撃的な態度であら探しばかりしていた。
実は私も標的にされた。
とある人物が、その人自身が先に行った自分の過ちやミスなど(その人にとっての都合の悪いこと)は棚上げした上で、私に関する悪口と噂話を(事実無根の内容も含めて)裏で吹聴していた。
さらに、私が知らない間に一方的に発せられていたその情報を知った他のボランティア活動をしている人物が事実確認もせずその間違った情報を鵜呑みにして私を執拗に攻撃してきたのだ。
該当する人たちは全員いい年をした大人ばかり。
●ケース5
過去、わたし宛に直接メールで殺害予告をしてきた人物がいた。
その内容について細かく書く必要はないだろう。
その言葉どおり、殺害予告である。
実はこの話には強烈なオチがある。
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○ケース1~5の出来事を中心に、他に起きた出来事なども例として挙げつつ、自身が感じていることを考えながら書いていく。
★ネット上で匿名性を利用して悪口を書き込む人について分析
ネット上ではケース1のようなタイプの人をよく見かけるが、そのようなタイプの人のどのあたりに私が首をかしげるのかと言うと・・・
①悪くない相手に悪口を発した
相手が間違っていた場合や悪かった場合だとしても、悪口を発すること自体あまり好ましい行為とは言えない。
ましてや、挨拶コメントをしているだけであり、荒らしているわけでもなく、自分がケンカを売られたわけでもなく、誰かを誹謗中傷をしているわけでもない相手に対して匿名で悪口を書き込む行為は、正当な理由がない。
匿名性を悪用した不適切な行動だと言える。
②矛盾した言動
「こいつは誰からも相手にされない」とこちらを批判している本人が、そのようなコメントを残すことによって私の相手を現実にしてしまっている。
その矛盾した言動が滑稽である。
あるいは、よほどさびしかったのだろうか?
③投影
人に対して「暇人」「かまってちゃん」「現実世界でも誰からも相手にされない」と言っているが、時間をかけて私のコメントをチェックしてその上わざわざ悪口を書き込むというその行動自体、よほど時間を持て余しているように見える。忙しければいちいちそんなことはしない。
それと、誰も現実世界の話など出していないのに急に現実世界の話を持ち出してくるということは、私を『かまってちゃん』認定してきたその人物こそが今まさに「現実世界で誰からも相手にされていない」状態で、その人自身が普段から内面に抱えているその大きな不満を無意識のうちにあのタイミングでたまたま私に投影してしまい、吐露して結果的に自己紹介してしまう形になった可能性があると感じた。
ちなみに過去、別の掲示板でも似たようなことがあった。
こちらが(特に問題があるとも思えない文章で)知りたいことを質問をしているときに、いきなり因縁をつけてきて「おまえみたいな仕事ができない奴はクズ」と、誰も話題に出してない仕事の話を持ち出してきてそのような悪口の書き込みをしてきた。
その人物が何をしたかったのかは意味不明だが、憶測だとおそらく「そんなことも分からない奴は仕事ができない」と決めつけたかったのかもしれない。
(こちらは分からなかったから聞いただけなのに それのどこが気に食わなかったのだろう)
その相手はその書き込みをすることで私にダメージを与えたつもりだろうが、私からすれば今回のケース1のパターンと同じで、「この人自身が今まさに現実世界で、誰かから仕事ができないクズ呼ばわりでもされていて、つらいのかもしれないな。どこかで憂さ晴らししたくて仕方なかったのかな。」と、冷静に判断し、スルーしたことを覚えている。
④捨て垢を使用 ※捨て垢とは、個人情報を隠して短期間で放棄する目的で作成されるアカウントのこと。
本垢であれば悪口を発して良いわけではないし、何をしてもいいわけではない。
捨て垢ならばなおさら。
そんなものを使ってこそこそ悪口を打ち込んでいる時点で暇人なのはその人だ。
世の中には、自身の正体を隠すために捨て垢(裏アカ)を作って、それを使用し、正体を隠した上で他者の悪口を発信する人が一定数いる。
YouTubeに限らず、Xでも有名人一般人問わず、捨て垢を使って陰で他人の悪口を書き込んでいる人がいる。
不定期に、それがある拍子にバレたというお知らせ(ニュース)が飛び込んでくることがあって、「へぇ、まだこういうことしてる人がいるんだ。」と驚く。
YouTubeでは押したことがバレないのをいいことに、低評価ボタンを押すのを趣味にしている人がいる。(「あいつのこと嫌いだから片っ端から動画に低評価を押してやった」という匿名掲示板への書き込みをチラホラ見たことがある)
Yahoo知恵袋にて匿名で「低評価ボタンを押したことはバレませんか?」という質問をしている人もいた。
バレないかどうかビクビクしてまで低評価ボタンを押したいのか。一体何が楽しいのだろう。
そのような趣味の人に対して私は、"かなり陰湿な人"というイメージを抱いてしまう。
匿名性を利用した悪い言動をとって日頃の鬱憤を晴らして喜んでる性質の人が世の中に一定数いるということ。
⑤沸点の低さ
たかが挨拶程度のコメントをしている人間がいただけで、それに対してなぜどうしてそれほどまでむきになれるのかが分からない。
自分が悪口を言われたわけでもなく、直接喧嘩を売られたわけでもなく、何か催促されたわけでもなく、こちらが政治や宗教などのセンシティブな話題について論評しているわけでもない。
腹の立つポイントが一体どこにあるのだろうか。
その程度でキレる理由が分からない。理解できない。
話はそれるが、選挙の時期になると毎回Xで、投票しに行かない人(選挙に行かない人)を過剰に非難する内容の投稿がこれでもかというほどたくさん流れてくるが、そういう発信をしている人の心理と似ているかもしれない。
そんなに腹を立てるほどのことか?
その出来事はそれほどまで自分の生活に直接影響のあることか?
生きていて他に考えることはないのか?
そのような疑問がわいてくる。
それこそ"よほど暇"でないと、そのような発信はできないだろう。
(ちなみに私は投票に行った。これを言わないとまた違う誤解を招くから。)
とにかく、理性で自制できない人は尊敬に値しない。
★理不尽な出来事に遭遇したとき、普段の私はどう対処しているか。
『ネット上の悪意に遭遇したときの対処フロー』
0:[スタート]
悪意のあるコメントに遭遇
1:[選択]
そのコメントが自分の人生にどれほど影響を与えるかを考える。
・影響なし → 2へ (終了)
・影響あり → 3へ
2:[成長]
スルースキルを磨けたと考える。
悪意に振り回されない冷静な自分を誇りに思う。
3:[落ち着く]
即座に反応しないこと。
感情的になってやり返すと後悔することになるから、一呼吸おいて冷静になる。
4:[行動1]
PCのメモ帳などに、起きた出来事や自分の感情・考えなどを打ち込む。
これは必ずしもおおやけに公開する必要なし。
公開しない場合は誤字や脱字を気にしなくていいからラク。
打ち込んでるだけで気分が落ち着いてくる。
5:[行動2]
時間が経つのを待つ。
問題の発端がSNSだった場合は、スマホやパソコンに触れる時間を減らして他の趣味に没頭するなど、SNSから少し離れてみるのも良い。
しばらくSNSを全く利用しないと決めて、一定期間SNSから完全に離れてみるのも効果を期待できる。
6:[行動3]
信頼できるコミュニティを築き、共感してくれる人と交流する。
オンラインフォーラムの空間を作ったり、信頼できる人だけ参加できるオフ会を開催するなど。
7:[行動4]
自分の時間とエネルギーを、自分の好きなことや大切なことに使う。
・
・
・
これらのこと(必ずしもすべてしなくていいし順番通りでなくてもいい)を実践することで、たいていの悪意は気にならなくなる。
1~7の実践を心がけ、基本的には反応しないように気をつけ、そのタイプの相手とは関わらない道を選ぶ。
★今回なぜこの記事を発信しようと思ったか
ブログの冒頭で、
私は本来”すぐ感情的になって攻撃してくる人”の類を相手にするつもりはないと述べた。
それは嘘ではないし、今までもこれからも"不適切な行動をとる人"を相手にしないというスタンスは維持していくつもり。
「だったらなぜこんな記事を投稿したんだ? 矛盾しているだろ! それこそ時間の無駄だろ!」と言いたい人もいるはず。
確かに当初はその考えを持っていた。
今回起きた出来事をこのブログ記事にするつもりなんて全くなかった。
なぜなら、完全に時間と労力の無駄だから。
ではなぜ今回このような内容を取り上げた記事をアップしたのかと言うと、
まず、
今回の出来事が起きたのと同じタイミングでたまたま、文章の土台のほとんどを数年前に下書きして仕上げていた記事を読み返していた。そしたら今回の出来事と合致する内容だった。現在の自分の考えと基本的に変わっていない箇所が多かったので、なんとなく「もしかしたらこれは今回記事にして出してみろというメッセージかな?」と感じ、改めてその頃書いていた文章に加筆・修正して今こうやって文章をまとめ、納得できる記事が完成したら、そのときは出してみようかなと思ったから。(この文章を打っている下書きの段階では公開するか否かの割合は70-30ほど)
次に、
これまで自分がしてきた経験とそれによって得た財産を自分の中にとどめておくだけでも私としては十分に感じているが、もし私の経験や考え方を発信してそれによって少しでも誰かにとって何かのヒントになり喜んでもらえるなら、プラスアルファ嬉しいから。
と、こういった流れで縁ができたために一連の出来事をブログ記事として出すことに決めたのだ。
私は、どこかの匿名掲示板や裏アカウントを使って本性を隠してこそこそ悪い書き込みをして憂さ晴らしをしたり、汚い言葉を使って直接相手に言い返したり、無理矢理相手を自分の思い通りに変えようなどという目的は一切ない。
今回はあくまで特別に、自分のこの空間でのみじっくり思考・分析して自分の考えを整理するのが第一目的で発信している。
さらに私としては、そもそもたとえ自分の空間だけだったとしても、このようなたぐいの発信は特別な時以外は必要最低限におさえてまれに発信する程度にとどめておいたほうがいい、頻繁に出すものではないと考えている。
なぜなら、いくら言葉を選んでいたとしても、たとえ正しいことを言っていたとしても、このような論評系の発信を普段から常に繰り返していると、「こいつは結局のところ毎回ごちゃごちゃ何かしらケチつけて文句言いたいだけ」というイメージを与えかねない。本人は正しいと思い込んで発信してはいるが実際はただ単に愚痴ってるだけという印象しか持たれず、言葉の重みや説得力がなくなる気がするから。
★ケース2について

なぜこの話を挙げたか。
ぶっちゃけ、焼き鳥の串うんぬんはどうでもいい。
大切なポイントはそこではない。
この例を出した理由として、
これはネット上でよく見かける
「中傷している奴はカス!」
「ネットリテラシーが低い奴はネットするなクソが!」
といった内容の書き込み(をしている人と)同様、
発言者自身がそういう発言をしている時点でまず当人自身がマナーやリテラシーを守れていないという点。
他者を「基本的なマナーが守れないカス」認定している人物が、ネット上で匿名性を利用して誹謗中傷したり暴言を吐いている時点でその人物が基本的なマナーを守れていない=他者に"カス"と吐き捨てているが、結果的に自己紹介している形になっている。
しかも、焼き鳥を串から抜いて食べる行為自体は法律違反ではないが、中傷や侮辱は場合によってはマナー違反どころか法律違反にすらなる…ということにも気づいていない。
それに私は何も「焼き鳥を串から外さず食べるほうが間違っている」とか「焼き鳥を串から外して食べたい」とか、串のことは一言も言っていない。
串から抜こうが、そのまま食べようが、人それぞれ好きなように食べたらいい=どちらでもいいと考えている派。
私が言ってるのは「ルールは大切だから守るのが基本」としても、あまりにもルールでガチガチにしちゃうと、そんな状況で食事をしたところで、たとえすごく腕のいい職人が作ったおいしい料理を食べていても、その場の空気が気まずくなって楽しくないだろうしおいしくも感じないだろうということを言いたかっただけ。一つの意見と感想。
だけどもし実際にこういう弁解を私がしたりすると、「今は焼き鳥の話をしてるんだろが!こういう奴は××だ!」といった感じの返しがくるのは目に見えている。
『どこでそんな言葉を覚えたの?』と聞き返したくなるような、おそらく相手にダメージを与えてやろうという意図で、こちらが想像していないような汚い言葉を使って侮蔑してくるのは、これまで長きにわたってネットを利用していて想像に難くない。
文章をしっかり読まずにすぐ感情的になって汚い言葉を使って叩いてくる人や、言行不一致の矛盾した言動をしていてしかもそれにすら気づいてない人に対しては、反論する価値はないと考えているからそのときはスルーした(これからもスルーする)。
そんな性質の人をいちいち相手にしていると、毎回Xの文字数制限どころでは到底おさまらず大幅に文字数をオーバーしてでも誤解されないよう事細かく丁寧に説明した長文を連投しなければいけなくなるし、それをしたら今度は「長文がウザい!」と言われるのがオチ。
そんなやりとりをするためにXやSNSを利用していても時間と労力の無駄でしかなく疲れるし、そういうことがあるから、記事前半に書いたように「私がネットで積極的に発信しない11理由」という考えが私の中にある。
あと、店側や店主だって攻撃的にならずもうちょっと丁寧に説明して、「できれば守ってほしい」とか「守れない人は申し訳ないがうちでは食べないでほしい」と言えばそこまでおおごとになるほどの問題でもないと思っている。
ちなみに私が上に書いた「外食での食事マナー」として私自身が考えているのは、
・食事の前後に「いただきます」「ごちそうさま」を言う
・ぺちゃくちゃ音を立てて食べない
・大声で話したり下品な話をしない
・何度も立ち歩かない
・アルコールを飲んで絡まない
・他の店で買ったものを持ち込まない
…今パッと思い浮かんだのはこういう感じ。
もちろん他にもきっと色々あるだろう。
そしてルールは大切だから守るべきだ。
だが、あまりにもルール!ルール!も違うような気がするし、実際そのような主張をしている人は大抵が攻撃的だからやはり矛盾しているような気がしてならない。
★理不尽な言動をする人は普段どうやって過ごしているのか
ネット上で不誠実な対応をしてくる人たちは、普段から一体どういう生活をしているのか想像がつかない。
以前YouTubeで、とある配信者が「あなたのXのアカウントをフォローしたんでフォロバしてください」と頼んできたから快く応じた。
ところが数ヶ月以内になぜかこちらをブロックしてきた。
私はその期間ほとんど何も発信していなかったから、自己省察しても自分の言動に原因があるとは考えにくいし、フォロバする直前にそのこと(ほとんど発信しないこと)もしっかり伝えていて、それでもかまわないと相手が言ってきたからフォロバした。
100歩譲ってもし仮に私が知らず知らずのうちに失礼なことをしてしまっていたとしても、それならば言葉をしゃべることができるのなら、やめてほしいことや嫌なことはしっかりと言葉で伝えればいいだけ。そうしてくれたらこちらも「申し訳ない。気づきませんでした、以後気をつけます。」と返答して終わる話。
簡単なことじゃないのか?
なのにその仕打ち。
もしかしたらその人の一方的な被害妄想か何かで、私に何か悪口を言われたと思い込んだのだろうか?
そして「法律違反しているわけではない!」や「そういう機能があるからその機能を使っただけだ!」といった反論をする(そのような考えを持っている)のだろうか。
確かにブロックする行為自体は自由だし好きにすればいいと思う。普段ならそれで問題ないだろう。
だけどそのケースの場合はあまりにも非常識に感じる。
モニターの向こう側に生身の人間がいてその人と接しているという思いやりの気持ちが一切感じられない。
それでも自己省察する癖のある私は、XのGrokにもこのことをできるだけ中立を心がけて何度か相談している。
これはXでも過去に数回投稿済。
※ 画像サイズが大きかったので3つに分けた



相談結果からもやはり、自分から先に頼んでおいてそれに応じてくれた相手に対し、その関係を自分から一方的にしかも短期間で遮断する行動は、人を振り回してくる自分勝手な行為のようだ。
人としていかがなものか。
ちなみに、
その相手は…
"自分から頼んでおいて応じてくれた人を短期間でブロックした"
それに対し私は…
(相手が何かの手違いでブロックしてしまったか、もしくは自分の行いを後悔・反省してメッセージを送ってくるかもしれない可能性を信じて、言い方は偉そうだが、)
"理不尽なことをされた側だけど2年間はブロックせずに待ち続けた"
……自分ができる限りのことはしたつもり。
これらに関するジャッジはお天道様に委ねたい。
ところで不思議なのは、他者に対して上記で書いたような言動をする人は普段も、世話になった人などに対して唐突に、「やっぱりおまえのこと気に食わないから私の視界から消えてくれ!」なんてことを言ったり、あるいはそのような態度をとったりしているのだろうか…ということ。
私だったら「大金を上げるから恩人を裏切れ!」と誰かから仮に頼まれたとしても、自分が世話になった人に対してそのような態度や行動は絶対に取りたくない。
そんなことをしている人が、他者と共存共栄してうまく生活できているのか疑問。
もしうまく生活できているとするならば、むしろそんな人間が存在するこの世の中のほうがどうかしているんじゃないかと感じてしまう。
周りの人たちに迷惑をかけ続けるような生き方をしているような人たちが普通に当たり前のように生きていけているのなら、必ずその陰で我慢している人や苦労している人が多数いるはずだ。
このような経験をするたびに驚きや情けない気持ちが出てくるのと同時に、世の中の理不尽さを嘆きたくなる。
きちんと自己省察できる人は他者へ意地悪な行為をするだろうか?
人は幸せな気分のときに他者へ意地悪な行為をするだろうか?
私の経験では、自己省察できる人や幸せな人は他者に意地悪なんてしないと思う。
★類は友を呼ぶ
ネット上で攻撃的な態度に出る人たちはきっと不幸な人生を歩んでいる。
そう言うと、「決めつけるな! 俺はおまえと違って幸せだし 友達も多いし 充実している!」などと反論されるかもしれない。
これまでネット上の匿名掲示板などを見てきた経験上、そういう応戦の書き込みを何度も目撃してきたから。
ではもし、そのそのような主張をする人がいると仮定にして、なおかつその主張が正しいとも仮定しよう。
でもやっぱりそれはまずありえない。
ネット上で他者に因縁をつけて悪口を書き込むようなことをする人が幸せとは考えにくい。
ここでもさらに100歩譲って、その人物が本当に今幸せを実感していると仮定する。
もしそうだとして、たとえばじゃあケース1を例に出してくるとして、
「おまえは現実世界で誰からも相手にされない」
=「俺は現実世界でたくさんの人から相手にされている」
="友達が多い"
がその人の自慢だとしよう。
でもこの世には、「類は友を呼ぶ」という言葉がある。
となると、その人物が言う「友達」というのは、その人物と似たタイプの人物を指す。
その人物の周りには、その人物と似たタイプの人物がたくさんいる…というだけのこと。
それってうらやましいことか?
その人物の言う「(おまえと違って俺は)他人が相手にしてくれる充実した幸せな人生!(仮)」というのは、品格の低い人が群れてガヤガヤ騒いでいるような人生を指すわけで、それを「友達」や「幸せ」と呼んでいるならば、それは私の中の価値観から大きくズレているし、私にはそのような人生は幸せに見えなく、むしろ不幸せな人生であり、全くうらやましいものではない。
もし神様から私へ質問があったとして、
”友達は多いが、その友達全員が次元の低い自分と似たような不適切な言動を繰り返す人たちばかりで、自分も含めてそれら全員がいつまでも周りに迷惑をかけてばかりで反省もせず、群れて騒いで悪い種を蒔き続けて過ごしている人生。”
か、
”ひとりぼっちだけど、自制できていて、誠実におだやかにまっすぐ生きる人生。”
か、
もしその二択のどちらかを選べと言われたならば、
私なら迷わず後者の人生を選ぶ。
それこそその人物が発したように「誰からも相手にされない奴」であってもかまわない。
そのほうがまだ悪い種を蒔かずに済む分マトモな人生だから。
★相手に忠告するか?
でももし仮に、その"不適切な言動をする人"が精神面で向上する可能性のある人ならば、(正直めんどくさいけれど)その相手のために私は自分の時間と労力を使って教え諭す役目を買って出てもいいと思っている。
もちろん、教え諭すといっても、よくある"年配者が上から目線で偉そうに説教する行為(自分が言いたいだけ)"は大嫌いだからそのたぐいのものを指しているのではなく、
あくまで本当に心の底から相手の人生のためを思える場合の助言のこと。
それをすることによって相手が「あぁ自分が間違えてました。気づかせてくれてありがとう。成長できました。」となってくれるなら私もお役に立てて嬉しいし、私自身も、「人の中には、たとえ間違ったことをしてしまっても、ちゃんとその過ちに気づいてさらに勇気を出して謝れる人もいて素晴らしい。自分も見習おう。」と、最初は嫌悪していた相手にでも逆に尊敬する気持ちが出てくると思う。
しかし残念ながら、私の今までの経験からすると、現実的に上記で例に挙げたタイプの人たちが即座に改心する可能性は99.9%ない。
そのような相手にまともな常識や正当な説得は通用しないし、それどころか逆ギレして、会ったこともない人に対して「おまえ」呼ばわりから始まって、屁理屈こねまくったり、罵詈雑言を浴びせてきたりのパターンが非常に多い。
そのような光景を嫌ほど見てきた。
それは目に見えている。
たとえば私が、冷静にかつ言葉を選んで、「挨拶程度のコメントに文句を言う行為は変なのでは? あなただって違う機会にそんな理由で自分も責められたら嫌じゃない?」と指摘したとしても、その人は逆上して必死にこちらのあら探しをしてくる。
約25年ほどネットの世界を観察してきて安易に想像できる。
そんな相手のためにわざわざ自分の時間を削って教え諭す役目を買って出るほど私はお人好しではないし、正義感も強くなければ、聖人君子でもない。
それこそ、そんな"暇"な時間はない。
ということで今回だって、何も言い返さず、何も仕返しせず、何か教え諭すこともしなかった。
その相手からしたら、こちらが言い返さないから「自分が勝った」と思い込んでるかもしれないが、別にそれでいいし、勝手にそう思ってもらってかまわない。
「逃げるが勝ち」である。
★ケース3とケース4 真実を知るべき
ケース3とケース4で取り上げた内容に関して。
現実世界にしろネットの世界にしろ、真実が分かっていない出来事に関して、
よくわからない情報を聞いたり知ったりしただけでそれを鵜呑みにし、安易に首を突っ込んで、誰が正しいか悪いか、何が正しいか間違っているか等を軽はずみにジャッジすることはおそろしい行為。
曖昧な情報を知っただけや、不確かな発言を聞いただけで、いいかげんな判断をするのは不誠実で無責任で非常識。
たとえば、一方の人が「私はこんなひどいことをされたんです!あの人はあんなひどいことをしたんです!」などと被害を声高に訴えたとしよう。
それは本当かもしれない。
でももしかしたら、その人は嘘をついているかもしれないし、大げさに振る舞っているかもしれないし、あることないこと付け加えて誇張しているかもしれないし、自分にとって都合の悪いことは言わずに隠しているかもしれない。
自分自身が完全に第三者の中立な立場で、その出来事の一部始終を確実にこの目で直接見てこの耳で直接聞いて「どちらが正しくてどちらが間違っているか断言できる!神に誓える!」と、絶対の自信がある場合以外は、軽はずみな善悪の判断はできないし、真実は分からない。
適当な決めつけはえん罪を生むことになる。
ケース4で紹介した事柄のように、
世の中には異様なほど被害者意識(被害妄想癖)の強い人がいる。
「私はこの人にこんなひどいことをされたんです!」などという嘘の情報(当人は被害者意識が強いため自分中心の偏見で物事を捉えてあたかもそれを本当の話のように吹聴する)を陰で流すなど、人としてひどい言動を取る人がいる。
私はそれを目の当たりにした経験から、一方の意見だけを聞いただけで、それが正しいのか間違っているのか何も分かっていない段階で、特定の人を裁くことの危険性を知っている。
当然のことながら私だってその都度毎度お決まり自己省察もきちんとするし、可能であれば第三者に中立な気持ちを心がけ相談もする。
それでも残念ながら、ケース4ではやはりどう考えても相手側に非があるという結論に至った。
あの人はあんなことをして何が楽しかったんだろうか、あの人は一体何の目的でボランティア活動をはじめたのか、いまだに全く想像がつかないし、
なにより私にとって最も理解しがたいことは、あの出来事に関わっていた人たちは全員立派な大人(高齢者)である。
これまで60年とか70年とか長い時間を生きてきて、これまでの人生の中で一体何を学んで生きてきたのだろうか、と。
失礼な言い方ではあるが感情的に表現させてもらうと、あの人たちは『これまでの自分の人生において、身に起きた出来事や体験からは何も学習しない、中身の薄っぺらいカスカスの人生を歩んできた。』のだろうなぁと思っている。
そのような『無駄に歳をとってるだけの人生』は、私からすればとてももったいない生き方に感じる。
さらにそのような人たちの中には、肩書きだけ見れば一見"立派な人"も多いから、それがまた私の中で「この世の中、何が正しいのか、何を見て善悪を判断できるのか。」が分からなくなってきてすごく葛藤した。
愚痴っぽくなってしまったが、あの人たちがとった言動は私がこれまでイメージしていた「ボランティア精神」とは大きく異なっていたから、あの体験は私にとってとても強烈で、『ボランティア活動の場でさえもこれほどまで予想外の複雑な人間関係が存在しているのか…』という驚きとショックを受けた。
あの人たちとの関わりは現在一切ない。残念なことに、おそらく今でも私は誤解されたままだし、そしてあの悪意の人たちはもしかしたらいまだに真実を知ろうともせず、いつまでも誤解したまま、あるいはそのこと自体を何事もなかったかのように忘れ、平然と生きている可能性がある。
あの人たちに対する嫌悪感と軽蔑の気持ちは私の心の中からいまだに消えてはいない。
何事にも冷静に対応することを心がけている私だが、あの出来事に関してはいまだに自分の中で完全に消化されておらず、悶々としていたりする。
なのでこの項目にはある種、中傷だと指摘されても仕方ない発言があるが、あの出来事は明らかに相手からふっかけてきてこちらが誤解された上にさらに糾弾されるという、体験した人にしかわからないほどの腹立たしくもあり理不尽でもある、えん罪事件なので、私自身も感情的になってしまっている。その点は自覚と反省をしている。
(この件に関してはメディアが取り上げそうな話題だが、プライバシー保護の観点から、個人名や起きた出来事の詳細をおおやけの場で具体的に書くことは控える。)
ケース4の出来事から私が学んだこと3点。
①実年齢と精神年齢は必ずしも一致しない
②立派な肩書きと人格は必ずしも一致しない
③真実が分かっていないこと&片方からの意見を聞いただけでその出来事を鵜呑みにしたりジャッジしてはいけない
ちなみに、
"真実が分かっていない段階&片方からの意見を聞いただけでその情報を鵜呑みにして人を裁く行為は危険"
の例が書かれたサイトがあったので載せておく。
くどいようだが、
確かな事実がそこにあると断言できる場合を除いて、真実の分からないことに安易に首を突っ込んで特定の人を裁く行為はやめたほうがいい。私はしたくない!
確かな情報や証拠もない状態で、そして自分の勝手な思い込みで、どちらが正しいかどちらが悪いかなんて誰にも分からない。
しかもせめて、後になってから結果的に自分が間違ってると気づいた時点で、そのときに反省や謝罪があればまだマトモな人だが、残念ながらそのほとんどのケースで結局何の反省も謝罪もなく、他者には厳しいくせに自分事となると何事もなかったかのように、悪びれる様子もなくいつまでも同じような言動を続けている有名人一般人が多く、私がSNS疲れする原因の大きなひとつとなっている。
もし当人もえん罪事件の被害者の側にでもなって苦しめば学ぶ可能性もあるが・・・ う~ん、果たしてその系統の人たちにそこまで学ぶ器量があるのかどうか大いに疑問。
仮に本人が被害者の立場になるようなことがあっても、しばらく経ったら"喉元過ぎれば熱さを忘れる"タイプで、またやりたい放題するのがオチかもしれない。
実際、過去に事件を起こして一度は反省するそぶりを見せていたのに同じことを繰り返している人もいる。
★ケース5のオチ
送られてきた殺害予告のメールをしっかり観察していると、そのメールの差出人の項目に送り主の住所を中心とした個人情報が書かれてあったのだ。
プライバシーがダダ漏れである。
もちろん送り主はそれに全く気づいていない。
それは送り主が正々堂々と勝負するために自分の個人情報を晒した上で殺害予告してきたわけでは決してなく、その主が全く気づかず漏れているだけである。
メールを送ってきた本人はこちらに対して「ざまあみろ!」と、そして私が何も言い返さないから「勝った!」と思い込んでいただろうし、「地獄を見せてやった!」とも思っていたかもしれない。
でも現実は上記の通り。
送り主が気づいていないだけで、もし私が警察や役所に相談しにでも行ってたら、地獄を見ていたのは当人なのである。
ここまできたら、もはや国宝級の異常者である。
もし私が本気で相手を訴えるタイプの人間だったり、知り合いに893がいて復讐しにでも行ってたとしたら、送り主は地獄を味わっていたはずだ。
この件はかなり前の出来事だが、当人はきっと今でもおそらく自分が助けられたことにも気づかず、それ以前に自分が悪行をしたことすら忘れていて、いつまでも(今でもまだ)同じような生き方をしている可能性は十分ある。
といっても、事実を確認せず決めつけるのはよくない。
実際はその人物が更生していることを祈っている…。
★自分は嫌がらせしたくない
現在の私は現実世界でもネットの世界でも、
どんなに自分が正しかったとしても、
どんなに理不尽な出来事が起きたとしても、
よほどのことがない限り、相手に言い返さないし、非難もしないし、通報もしない。
どうしても我慢ならないことが起きたときは、言葉を選んで発信したり誰かに愚痴をこぼしたりすることもまれにはあるが、滅多にない。
なぜなら言い返したりやり返したりしても何の解決にもならないし、ネガティブなものをまき散らしても余計に不毛な争いを生み、結果的に悪循環になるだけだから。
YouTubeでは低評価ボタンも押したことがない。
低評価ボタンを押すことも立派な中傷=匿名を利用して陰から攻撃する行為と私は捉えているから。
といっても、低評価ボタンを押すこと自体や通報すること自体を否定・批判しているわけではない。ケースによっては有効に使える場合もあるだろうから必要な機能だろう。
ここで私が言っているのは、私なら"自分が気に食わないから"という理由だけで、もしくは嫌がらせ目的でそういう行為はしたくないということ。
なぜ私が上記のことをしないかというと、
まず、
そんなことでいちいち腹を立てていたらキリがなく、毎日ちょっとでも何か気に入らない出来事が起きるたびに誰かに対して愚痴や悪口を言い続けたり、不平不満を発し続けるようなつまらない人生になってしまうし、そんなことをしていたらそれこそ人生の大切な時間が無駄になってしまうと考えているから。
次に、
人を裁けば自分もいつかどこかで誰かから裁かれる因果応報(ブーメラン)があると信じていて、よほど自分が100%に近い確率で正しいと言い切れる場合以外は基本的に裁きたくないから。
ということで、
"理不尽な言動をする人"と出くわしてしまっても、私はそれを相手にせず、同じ土俵に立たないという選択を取るように心がけている。
なので、今回のこのブログ記事は自分にとってすごく特別なもの。
★因果応報の法則
理解しがたい言動をする人を裁く必要はない。
なぜなら、相手が悪い言動をしたのならそれに見合ったものがその相手にそっくりそのまま返るという因果応報の法則がこの宇宙に確実に存在している。
それはなにもスピリチュアル系の本を読んで得た知識や情報だけでなく、私の経験からも断言できる。
他者に対して明らかに理不尽な言動を長年にわたって繰り返して迷惑をかけ続けていた人に、ものすごく大きな天罰が下った光景を、私は何度も目撃している。
具体的に、いつ、どこで、どんなものが、その人に返るのかまではさすがに想像はつかないが、この宇宙に存在する自然の法則が最終的に善悪をきちんと証明してくれるのは間違いないから、私は悪意には関わらず、お天道様に委ねて基本的には何もしないスタンスをとっている。
たとえば、誰かを傷つける言葉を投げかけた人は、その人もいつかどこかで誰かから同じような言葉を投げかけられる経験をする。まるで、投げたボールが壁に当たって自分に跳ね返ってくるかのように。
もしその相手がここで、「大したことないだろ。この程度で騒いでるのはおまえが過剰反応なだけのバカだ!」と反論するならば、それはそれで一つの意見として良いと思う。
ふざけているのではなく、本当にそれで良いと思っている。
それはなぜか。
どういうことか説明すると、
その相手も、いつかどこかで、
自分は特に何も問題のない(間違っていない)言動をしただけなのに誰かから理不尽に叩かれ、そして反論・弁解しようものなら、
「大したことないだろ。この程度で騒いでるのはおまえが過剰反応なだけのバカだ!」と言われるのが分かっているから。
ひとつ上の項目で触れたYouTubeの低評価ボタンを押す嫌がらせをしている人にしても、「法律違反しているわけじゃないだろ!ルールの範囲だろ!おまえはバカか!」と反論するならば、それもそれで一つの意見として良いと思う。
その人も、いつかどこかで、
自分は特に何も問題のない(間違っていない)言動をしただけなのに誰かから法律やルールの範囲内で理不尽な嫌がらせをされ、そして反論・弁解しようものなら、
「法律違反しているわけじゃないだろ!ルールの範囲だろ!おまえはバカか!」と言われるのが分かっているから。
もちろんこれは一例であって、因果応報というものが、自分のとった言動と全く同じ現象がそっくりそのまま本人に返るという単純なことではない。
要するに、自分がやったことと似たような内容、そして同じ大きさのものが自分に返るということ。
それでもかまわないなら、その人物はこれからもずっとそのスタンスで生きていけばいい。
だけど因果応報はあるという事実だけは覚えておいたほうがいいと思う。
一例を出すと、
人物Aが、とある言動をした人物Bを激しくバッシングした。
一定の時間が経過した頃、なぜかBをバッシングしていたそのAが、なぜか以前Bがとった言動と同じようなことをした。
今度はそのAが大勢の人からバッシングされた。
まさしくブーメラン!
そのようなケースを何度も目撃している。
愚かな者は、悪いことを行ってもその報いの現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。
しかし、その罪の報いの現れたときには苦難を受ける。
悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼりたての牛乳のようにすぐ固まることはない。
その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。
しかし、悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。
「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、悪を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。
愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいに満たされる。
~ 『ブッダの真理のことば・感興のことば (ダンマパダ)』 中村元[訳] 岩波文庫 ~
★自戒を込めて
もちろん、それは私自身にも当てはまることだから、他人事として話しているわけではない。
このブログに登場する"理不尽な言動をして他者を苦しめる人"に巡り会ってしまったという事実、そして嫌がらせや中傷をされたということは、
・私の中にも人として未熟なところがあってそれが類は友を呼ぶとして目の前に"理解しがたい言動をする人"が現れる形で表現されてしまった
・私も過去にたとえ無自覚であったとしても誰かを傷つけた事実があってそれが因果応報の法則として目の前に"理解しがたい言動をする人"が現れる形で表現されてしまった
そのように捉えて、私自身の中にも未熟な部分があった、私自身も過去に悪い種を蒔いていたことがあったのかもしれないという反省と学びの機会になっている。
★自分にも間違いはある
ネガティブなことばかりではない。
このブログ記事にたくさん書いてきたような出来事が起きたことは、自分にとって決して悪い思い出だけでなく、大きな学びになったのも事実。
その経験をしたことで、
自分自身はできるだけ他人を批判しないようにしよう、あるいはもし批判したくなった場合でも、その前に自己省察を怠らず、そして事実確認をしっかりして、言葉を選んで、冷静に発信することを心がけようと考えるようになった。
それらを自分に強く誓える良い経験=財産ともなった。
重要なポイントは、「他人は他人。大切なのは自分がどう生きるか。」ということ。
他人は変えられない。変える必要もない。
前述したように、そのような未熟な人間に対して提案や説得をしたところで、その相手は自分の間違いにも気づかないだろうし、自分の非を認めないだろう。真理に目覚めるわけでもないし、感謝もしないはず。
それどころか逆恨みするだけ。負の連鎖になる。
だったら他人に目を向けるのではなく、自分に目を向ける。
ではどうする?
自分は変えられる。
理不尽な体験をしたとき、
自己省察しない人たちは、悪い意味でいつまで経っても何も変わらず、精神面を向上させず、やりたい放題の人生を歩み続ける。
逆に、その問題や違和感に気づける感性を持った人たちなら、自己省察して精神面を向上させることはできる。
どちらの人生を歩みたい?
悪いことをすればするだけ、悪いことをした本人にそのすべてが返るわけだが、それでいいと思うなら、やりたいことをやりたいだけ好き勝手にやればいいと思う。そういう人は迷わず前者を選べばいい。それは自由意志だ。
私は後者を選ぶ。これも自由意志だ。
当然のことながら私も完璧な人間ではないし、過ちや失敗は何度もあるし、自分のことをアホだなぁと感じることも割とある。
「余計なことを言ってしまった」とか「言葉の選び方を間違えてしまった」とか「誤解を招くような表現をしてしまった」などと、後から振り返って気づくことがある。
自分では正しいと考えて行動していても、後から振り返ってみて自分が間違っていたケースもあったりする。
じゃあどうすればいいか。
同じアホなら、自覚のないアホではなく、せめて自覚しているアホになればいい。
後者のアホのほうは伸びしろがある。
自分をアホだと自覚できたら、まず他者に対してそれほど偉そうな態度なんてできなくなるし、自分が間違っていることに気づいたら反省して改めたら人として成長もできる。
今回の記事だって(自戒はしていても)実際のところ、愚痴や悪口みたいになってしまっている部分はあちこちあるし、もしかしたら主観で間違えた捉え方をしてしまっている箇所もあるかもしれないし、他人を強く批判してしまう時点で、自分も未熟な部分がある人間なのだ。
それはこの記事を書いている最中、何度も自覚させられている。
その「自分は未熟者」と自覚するところからスタートし、それを成長につなげていける人間でありたい。
常に自己省察は忘れないようにしている。
それが大切。
「いやいや 自分のこの考えは絶対に正しい!」と言いたいところだけど、それを言っちゃうと、
"理解しがたい言動をする人"だって、本人は絶対に自分が正しいと思ってそういう言動をしているわけで自分の間違いを棚上げしたり正当化して「俺は正しい!」とか言い出しかねないし、
そうなるとやっぱり同じようなレベルになってしまうから、私は「自分は絶対に正しい」とは思わないように気をつけている。
私自身、これからも事実に基づく誠実な言動と、より慎重な発信を心がけたい。
私のこのブログを読んで共感してくれた人や、元々似たような考えを持っている人たちには頑張ってほしい。
★余談 私のことも信用するな!
記事内で何度も「確かな情報なのかどうかも分からない一方からの意見や愚痴を鵜呑みにするのは危険だ」と何度も書いてきた。
それはこの私に関しても同じく。
なのでこの記事を読んでくれている人だって、
このブログの内容や私の意見を全面的に信じる必要なんてないし、信用できないと思えば疑ってもらってかまわないし、スルーしてくれてもいい。
各自が自分の意思で自分の好きな解釈をする、
そうした自律心、冷静な判断、中立な言動が大切だから。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
以上、どちらかというとネガティブな方向の内容を主にいろいろと書いてきたが、
・慎重派の人が自分の気持ちを言葉にして表現する
・慎重派の人が自分の気持ちをネットで発信する
という行為は悪いことだけではない。
[1]
自分の考えていることを何度も文章として書き出すことで自分の考えを整理することができる。
考えがまとまると気分がスッキリする。
[2]
慎重派であることはマイナス点だけでなく、発信する前に深く考えるため、トラブルを回避できたり、発信内容に深みや誠実さが生まれる。それが自分の自信や誇りになる。慎重になるということは、決して弱いのではなく、むしろ心が強いから慎重になれる。
[3]
ネットでの発信は誤解や悪意のリスクを伴うけれど、発信することによってまれにではあるが誰かと繋がれたり価値観を共有できたりする嬉しさも存在する。
わたくしごとだと、「あなたの褒め言葉で救われた」とか「あなたがいてくれるだけで場が明るくなる」と言ってくれる人がいたりした。そのときは慎重派の私でも「行動して良かった!」と思えた。
[4]
元々ネガティブだったものがポジティブなものに変わることもある。
今回この記事を発信することになったキッカケはネガティブな出来事だったが、
ネガティブな出来事がキッカケ → この記事を書いた → ひとりでもこの記事を読んで喜ぶ人がいた
…としたら、私がこの記事を書く過程で、自分の考えを整理し、ネガティブな体験をポジティブなものに変えることができたということだし、
さらに喜んでくれる人がいるということは、これ以上の喜びはない。
[5]
嫌なことや理不尽なこともあるから、嬉しいことや楽しいことのありがたみも分かる。
もし仮に、発信した結果が毎回自分の望み通りのものばかりだったとしたら、それが当たり前の感覚になってしまって、嬉しさや喜びを見いだせなくなり、感謝できない傲慢な人間になってしまい、もっと欲しくなって際限もなくなり、最終的に本当の意味で自分が苦しくなる。
そうならないためには、思い通りにいかないことやある程度の苦しみは必要かもしれない。
そう考えると、思い通りにならなくてもそれは良いことが待ってる前触れとして受け入れられる。
・
・
・
以上のことから、慎重派であることは自信を持っていいことだし、そんな自分を肯定できる。
発信はリスクを伴うが、慎重派の特徴を活かして自分のペースで丁寧に表現することで、誰かの心に響く瞬間が生まれるかもしれない。
ということで、完全に沈黙するのも私の望むところではない。
自分の考えを整理して発信することで、自分の考えを見つめ直すことができるし、そこから何か新たな発見があったりもする。
たとえば、自分が本当に進みたい道、本当に望むもの、本当に楽しく感じることなどが見つかったりすることもある。
私の好きな言葉「沈黙は金」を座右の銘にしつつ、慎重にかつ頻繁に発信しないスタンスは維持して、自分も完璧ではないから自己省察を忘れず、中身のある発信を自分のペースで不定期に続けることで、小さな変化や喜びを生み出せれば… それが私の目指すところだ。
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・おわりに…
インターネット上での発信は怖いこともありますが、
私と同じような慎重派の人で投稿をためらいがちな人は、好きな分野での投稿やちょっとしたコメントを発信することから始めてみるといいかもしれません。
自分のペースで無理せず発信しているうちに、意外な共感を得られたりして、それが喜びをつながることもありますよ。