明るい明日を (1)
出版年月日:2012年4月4日
(本書は、2008年1月から2011年3月まで、
スポーツニッポン紙上で掲載されたコラム「明るい明日を」を書籍化したものです。)
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この本を久しぶりに引っ張り出してきた。
少しずつ読みながら思ったことや感じたことなどを書いていきたい。
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P.10~
>「今こそ政官の関係に変化を」
>今年(2008年)は衆議院解散総選挙が行われる年
まったく何も思い出せねぇー
だけど思い出せなくてもぜんぜん悔しくねぇー
どうでもよすぎるー うぉー
>ひとつの政党が長い間、政権を握ると、癒着ができます。
政界って、悪い意味でいつまで経っても変わらない世界ですよね。
>「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ」
古文や漢文は苦手でござる…。
大変申し訳なく思いゴメンつかまつり候!
(それらしいセリフ言ってみた)
>常であってはいけないということで「諸行無常」という言葉もあります。
>それが地球の法則、世の中の法則なのです。
>変わらないというのは法則に反しています。
絶対的な地球の法則・・・それに反する言動をとり続けていると、
いつか(これがいつかわからないから人間は調子に乗る)
とんでもないことが起きると思います。
政治家のみなさん、あの世と未来世が楽しみですね・・・わっはっは!
>政官界の人たちは初心を忘れてしまいました。
ん?
その言い方だと、元々は良い人でした…みたいに聞こえますよ。
元々良い人が政治家に立候補なんてするかしらん?(美輪さんのマネをしてみた)
確かに、まれに純粋な志で立候補する人もいるでしょう。
でも一度でもあの世界に足を踏み入れてしまうと、
想像以上にあまりにもおいしすぎる世界・商売なので、誰しも変わっちゃうと思います。
人間らしいっちゃ人間らしいですがね。
そういう意味では「諸行無常」かもしれません。悪い意味で…ね。
>人様のお金(税金)でいただいた給料を悪用したら泥棒です。
シャバの世界での"非常識"が、政界では"常識"なのでしょうか。
この記事が世に出てから12年以上経っていますが、いまだに同じようなことが横行してまっせ。
特権階級?
上級国民?
>昨年(2007年)の守屋武昌前防衛事務次官の事件
まったく覚えてない!
本には、ご丁寧に注釈が書かれてあった。
「長年にわたって接待を受けた見返りに便宜を図った収賄容疑」だってさ。
ほんっと、いつもいつまでもこんなことばっかですね。
>昨年(2007年)の『今年の漢字』は「偽」でしたが、私は「卑劣」こそが代表する言葉だと思っています。
美輪さん、おもしろすぎる!(笑
『今年の漢字』は一文字だから「卑劣」はありえない…(苦笑
あ、これは決してバカにして笑ってるわけではありません!
文章だとキツく見えてしまって誤解を招いてしまうのでそれは言っておきます。
純粋におもしろいなぁ、と。
美輪さんがそこまで計算されておっしゃってるのか?
どっちにしろ、空気がなごむからそういうのは個人的に好き!
ま、政界の汚職などを一文字で表そうとするほうが無理あるかも。
>自民党と民主党の大連立騒動、渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長が持ちかけたとか、自民党から言い出したとか、いやそうじゃないとか、小沢さんが辞任撤回で涙ぐんだり…。
>子供の使いじゃあるまいし、と思います。
これに関してもまったく覚えてませんわ。
それにしても、いつの時代も同じような茶番ばかりやってますね。
今回、私のセリフも同じような言い回しばかりになってしまってる…。
悪さをして、
嘘をついて、
秘書のせいにして、
適当にごまかし続けて、
国民が忘れるのを待つ、
・・・毎回その作戦ですな。
>他人がやったことでも「私が悪うございました」と頭を下げれば男が上がる。
そういう人、今まで一人でもいましたっけ?
それどころか、自分がやったことでも他人のせいにしている人だらけですよ(笑
私は「政治家は先生ではない」と思っている人間ですが、
もし他人がやったことでも「私が悪うございました」と頭を下げられる政治家がいるなら、
その人のことは「先生」と呼びたいです。
でも『俺が全部責任をとってやる』と言えるような政治家がもしいたとしても…
そういう立派な人はそもそも自分が「先生」と呼ばれてあがめたてまつられたりチヤホヤされたりするのが目的で政治家にはなってないと思うんですよね。
だから別におだてたり媚びたりする必要もないから、やっぱり「先生」とは呼ばなくていいかも。
ということで、
器の小さな政治家も、
立派な政治家も、
どちらも「先生」と呼ぶ必要はない・・・というのが現時点での私の答えです。
ま、おだてたらすぐ喜ぶような人に対してはわざと「先生」と呼んで媚びて虎の威を借るのも処世術の一つとしてはいいかもね。私はしないけど。
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第一回目の記事を書き終えて思ったこと。
書き終えてからよく考えてみると、この本は社会の"悪"をぶったぎる内容で、そのほとんどが政治の話題。
私は自身のブログのプロフィール欄に、
「宗教のこと・政治のことには首を突っ込まず、そのほか悪口なども書き込まず、論評もできるだけしない。」のようなことを書いている。
その時々で多少考えが変わったりしてプロフを書き直すことがあっても、
基本的には自分の中のその根本的な部分のルールはブログ内に限らずいつでもいつまでもどこでも持ち続けるつもりでいる。
しかし、そのルールを守っていると、この類いの本の感想や批評などは書けなくなってしまう。
さてどうしようか。
ルールを貫き通すか。
それとも、今までも論評してるからこのままいっちゃうか。
あるいは、秘書のせいにしてしまうか。
ちなみに、私が執拗に「論評しないようにする」と言ってるのは、
決して"私は悪口や批判をしない良い人です"みたいに格好をつけたいわけではない。
(事実、実践できてないし。)
「論評しない」にこだわっている理由は、
自分が発した「想念・言葉・行動」はすべて自分自身に返ってくると"宇宙の法則"で言われていて、
誰かを悪く言ったり批判したりすると最終的に自分に返ってきて自分がつらくなりそうだから、
"自分のために"「論評しない」とこだわっている。自分のことがかわいいからね。
なかなか思い通りに実践できていないんだけど・・・。
もうちょっと自分を大切にしようとその都度感じている。
"想念"の部分がしばらく自身の大きな課題になりそう。
言葉や行動は理性で誰でもある程度はコントロールできる。
ただ、想念は自然と湧き出てくるものだから厄介だ。
しかも想念は目に見えないからそれをしていることに自覚すらできず、
延々と考え事をしている(悪い想念を出し続けている)場合だってある。
マインドフルネスでもしてよほど注意しないと難しい。
こうやってイチイチ文章化しておおやけにすることで、そのたびに自分自身に言い聞かせ見せて戒める作戦。
救いとして"想念"は言葉や行動と比べた場合、すぐにカルマが目の前で現象化するわけではないという点。
ある程度時間の猶予が与えられている。
ということは?
悪い想念が思い浮かんできたらポジティブな想念や言葉を思い浮かべてカバーしてあげるとカルマが現象化されずに済む、とのこと。
ん?
データを示せって?
現時点での科学では解明できておりませ~ん!